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パプリカ 歌詞考察〜あの日のわたしへ

前回、2018年のNo.1ヒットソングである「Lemon」の歌詞を考察した。結論からいえば米津玄師さんがハチ名義でニコニコ動画に公開した2015年の楽曲「ドーナツホール」と同じ「喪失感」をテーマにした物語であり、しかし歌詞の「あなた」にはたくさんの解釈の余地があることに着目した。

そして梶井基次郎の小説「檸檬」にインスパイアされたのではないかという仮説を立て、自我の象徴であるレモンを「あなた」に分け与えたことで、喪失したあなたが永遠に自分の中で生き続ける(光になる)話だと結論付けた。


【パプリカとはどんな曲?】

今回はその米津玄師さんが同じく昨年に作詞・作曲・プロデュースしたFoorinの「パプリカ」の歌詞を考察したい。もともとNHKが「2020応援ソング プロジェクト」と銘打ち、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会に公認プログラムとして認証されたものだ。「みんなのうた」で2ヶ月間放送された後、紅白歌合戦でも披露された。楽曲の収益は日本スポーツ進行センター内の基金に寄付され、次世代アスリートの育成に充てられる。

そんな曲なのだが、歌詞を一見した印象は「オリンピックぜんぜん関係ないじゃん!」である。「パプリカ」は「Lemon」に比べるとだいぶ具体的な情景描写に溢れていて分かりやすい曲だが、それでも多様な解釈が可能だろう。それは今回も「あなた」が誰なのかが良く分からないからである。さらに今回は物語の語り手の一人称である「僕」とか「私」が登場しないのだ。

【パプリカの歌詞解釈が話題に】

今回この文章を書こうと思った動機は、エンタメニュースサイトの「まいじつ」にこんな記事が掲載されていたからだ。

「まいじつ」を運営するのは日本ジャーナル出版。あの日本一憶測と妄想だけで芸能記事を書くことでお馴染みの「週刊実話」を刊行しているところだ。(※2次創作として読めば、余りのくだらなさにそれはそれで笑えるものもあるが、女性蔑視が過ぎる「決意のAV転身へ」とか「涙のフルヌード」ばかりなのは否めない)

この記事も結局は裏どりゼロの推測でしかない仮説なのだが、それはそれでもっともらしい所が面白く、僕は思わず「なるほど」と膝を打った。とはいえ「パプリカ」が反戦と平和をテーマにした曲だと考えるのは少し飛躍しているように感じる。

この曲はやはり大枠ではノスタルジーの歌と見るべきだろう。夏が来てふと自分の少年時代を思い出す、自然の中を駆け回った記憶が蘇る話だ。僕も最初に「パプリカ」を聞いた時に、子どもの頃の心象風景がよみがえった。そして僕は米津玄師さんと同い年なので、この曲が単にノスタルジーについての歌だけでなく、いまを生きる子ども達に向けて作られた曲のようにも感じたのだ。(当然だが、Foorinに歌わせている時点でそれは明らかである)

【わずか数十年で激変した日本の夏】

僕や米津玄師さんがFoorinの子ども達ぐらいの年齢だった15~20年ほど前の日本の夏は、今とは全然違うものだった。ものすごく暑い日といっても気温は32度から33度ぐらい。エルニーニョ現象に伴って冷夏となり、28度程度の過ごしやすい日が続いた年もあったと記憶している。

ところが今となってはデフォルトが32・33度程度となり、しばしば35度の猛暑をこえる「危険な暑さ」が続いている。つい最近もフェーン現象で新潟県上越市では40.3度を観測したニュースが話題となった。

この「危険な暑さ」の中ではとてもじゃないが、子どもが外で遊ぶことなど出来ないだろう。クーラーのついた部屋の中で、ゲームをするかYoutubeでも観るぐらいしかレジャーがない。

そもそも15年前にはまだスマートフォンがなかった。携帯電話を持っている小学生など身の回りにはいなかったし、Youtubeも出来立てくらいだった。家庭用ゲームはPS2とゲームキューブが登場するぐらいで、ゲームボーイアドバンスが流行していた頃だ。とはいっても、それだけにどっぷりと浸かるようなこともなかった。僕たちは外で遊んでいたのだ。

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東京だってどんな地区にも公園がある。僕が住んでいた地区には特に大きな公園がいくつもあったので、そこで目一杯遊んでいたものだ。今にして思うと「鬼ごっこ」とか「かくれんぼ」とか「ドロケー」とか、ただ走るだけのコンテンツでなぜあそこまで楽しめたのだろう。夏はそこに水鉄砲が加わり、陣地を取ってサバゲーちっくなことをして遊んだものだ。

あの頃僕や友人が渇望していたのは「秘密基地」だった。裏山や森にひっそり佇む山小屋とか、漫画やアニメに出てくるようなツリーハウスに死ぬ程憧れていた。アスファルトで舗装された道とか、コンクリート打ちっぱなしのマンションを死ぬ程ダサいと思っていた。だってそうじゃないか、大人が読め読めと押し付ける児童文学はみんな冒険を推奨していた。『ハックルベリーフィンの冒険』だって、『エルマーのぼうけん』だって、あるいは『ハリー・ポッター』シリーズだって。

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大人が作った無機質で幾何学的な「都会」はカッコ悪くて、僕は友人と自転車に乗ってひたすら秘密基地を探した。となり町のそのまたとなり町まで。どこかに子どもだけの夢の世界があるーそれが僕が子どもの頃の夏に探していたファンタジーだ。

しかし地球温暖化、異常気象、なんでもいい。とにかくわずか数十年で日本の夏は決定的に変容したと言えるだろう。例えば80年代シティポップを聴けば明確だが、かつてはトロピカルで南国的な(言い換えれば楽観的な)イメージが未来の日本の夏だった。

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実際はどうか。スーパー台風、突然の雹、そしてゲリラ豪雨。どちらかというとトロピカルではなく東南アジアのようになっている。さらにタチが悪いことに夏の湿気はより不快に、冬の乾燥はより僕らを苦しめるようにもなった。だからシティポップを聴くと二度と叶うことのない楽観的・希望的な日本への夢を見てしまい、その儚さが同時に味わい深かったりもするのだ。

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【歌詞の「あなた」は昔の自分】

「パプリカ」も全く同様である。歌詞の「あなた」は自分自身のことではないかと思う。二度と戻れない、あの素晴らしい日々を生きていた過去の自分との対話なのだ。

何かのきっけでノスタルジーの扉を開けてしまった主人公が過去の自分に会いに行くのだ。開発が進み、わずか数十年ですっかり変わってしまった地元の景色がふと蘇る。『平成たぬき合戦ぽんぽこ』のラストシーンのように。

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パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種を蒔こう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせあなたにとどけ
かかと弾ませこの指とまれ

A・B・Cメロの語り手は主人公(現在)だが、サビは「あなた」(過去の主人公)ではないかと思う。「あなた」が「わたし」にこの指とまれと呼びかけ、そしてかつて抱いていた夢をもう一度見せてくれるのではないか。この推測は、米津玄師ver.のミュージックビデオを見て確信に至った。

【MVの風の子とは何者?】

MVはFoorinくらいの少女と少年が「風の子」と過ごした日々を回想するストーリーだ。この「風の子」はとても抽象的な存在で、同時にイマジネーションそのもののようにも見える。僕はおそらく少年時代(Boyhood)の象徴ではないかと考えた。風の子が空を飛んだり、花火を金魚にしてみたり、空にクジラを浮かべるのは幼年期に誰しもが持っていた「無限の可能性」を表している。しかし、それはやがて確実に可動域を狭めていき、それぞれの細くて長い人生の一本道に収斂してしまう。

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成長することや、一人の人間の人格が形成されることは基本的にはポジティブなこととして受け止められる。しかしその過程において私たちは膨大な可能性と選択肢を捨てていることもまた事実なのである。「パプリカ」は前を向いているのではなく、立ち止まり後ろを振り返って「寂しさ」に浸っている歌ではないだろうか。

したがってFoorinが歌うオリジナルの「パプリカ」は、「風の子」目線で明るく無垢な存在が終始楽しそうに歌っているのに対し、米津玄師ver.のアレンジはノスタルジーが前面に打ち出されている。Foorin版は余り季節を感じさせないのに対し、米津ver.は夏、それも「夏の終わり」の余韻に閉じ込められてしまう印象を受ける。

主人公と「風の子」の関係性で一番類似していると思うのは、ピクサーの2015年公開のアニメ映画『インサイド・ヘッド』のビンボンだ。

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映画を観た人ならこの例えで分かって頂けると思うし、観たことがない人は是非観て欲しい。個人的には『インサイド・ヘッド』は全ピクサー作品の中でトップ3に入る大傑作だと思っている。(日本でヒットしなかったけど)

【パプリカそのものには意味がない?】

もう一つ、この曲の歌詞最大の謎は「なぜパプリカなのか」であるが、これは米津さん本人が「言葉の響きが良かったから」と言っている以上に意味はないと思う。それ以上の論理は全て邪推・深読み・こじつけの類にあたるだろう。なぜならパプリカが日本で栽培されるようになったのはつい10年ほど前で、いまも輸入がほとんどだからである。かつて日本のどこにでもあった原風景が曲の舞台なのだから、ここに野菜のパプリカが当てはまらないことは自明だ。どちらかというと「おまじない」として言葉そのものがオノマトペになっていると解釈した。真夏の太陽に向かって赤や黄色の花びらをつけた植物がぐんぐんと伸びていく、その高揚感が「パプリカ」という言葉に集約されているんじゃないかな。ここは理屈ではなく、もはや感性だろう。

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【Don’t Look Back In Anger】

ということで、やはり僕はまいじつの記事にあるような「パプリカ」=反戦・平和ソングという解釈は少し飛躍が過ぎるように思ってしまう。ただし、同時にこの曲に後からそういう意味が付与されていくことは率直に素晴らしいことと考える。

例えばイギリスのバンド オアシスの代表曲「Don’t Look Back In Anger」がその典型だ。余談だけど、この曲は元々ファンフェイバリットでライブで必ず演奏する曲ではあったのだが、一般層にはそこまで認知されてない曲だった。たぶんWhateverとかMorning Groryとか、Lylaとかの方が日本でも人気だった。だけど映画「BECK」で使われたのと、auのCMで使われたのをきっかけに、いまや間違いなくオアシスで一番有名な曲になってしまった。

「Don’t Look Back In Anger」は、別れた彼女が男に「あなたの元を去るけど、付き合っていた日々自体を憎まないでね」と告げるという歌詞だ。要するに失恋ソングなのだが、この曲はいまテロに対するプロテストソングになっている。

きっかけはアリアナ・グランデがマンチェスターでコンサートをした時に起きたテロ事件だ。

彼女は事件後に再びマンチェスターで無料の慰問コンサートを行う。そこでコールド・プレイのボーカル、クリス・マーティンが彼女とマンチェスター市民のために捧げた歌が、地元のヒーローであるオアシスのこの歌だった。「憎しみを持って過去を振り返らないで」と呼びかけるこの歌は、完璧にこの状況にハマり感動的なモーメントを作り出した。以降、この曲はただの失恋ソングをこえて世界中で平和を願う人達のアンセムとなりつつある。

「パプリカ」もきっかけはどうであれ、反戦・平和のアンセムとして歌い継がれていくのであればそれほど素晴らしいことはないと思う。それは平和の祭典であるオリンピックの応援ソングとして書き下ろした米津さんにとっても、アーティスト冥利に尽きることではないだろうか。

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