見出し画像

授業を早送りで観る学生たち/コンテンツ消費の現在形

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

知人の紹介で、買って読んでいる本があります。

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~』 (光文社新書)

新書で安いし、オススメです。
皆さん、なんらかの情報・作品の発信者であり、かつ受信者だと思います。自分がどのように情報・作品を送り出しているか。どのように受信しているか。自分の発信が早送りで受信されたら、どのように思うだろうか……と、身につまされる思いで、ウラからオモテから、自分に当てはめて読むと面白いですよ、この本。

映画を受信する2つの態度

まだ本を読んでいる途中ですけど、第1章で示されている映画の受信態度に2つあって、
・情報として「消費」し、知識量・話題性を得る
・作品として「鑑賞」し、人生や価値観の変容を楽しむ
言うまでもなく、早送り・10秒ずつ飛ばしで映画を見るのは、映画を「消費」しているひとたち。コスパ・タムパ重視。

本に書かれていないが、ぼくなりに少し広げるなら、
情報として「消費」するひとは、それを受信することによって、自己を変容させる気がない。着脱可能なアクセサリのように、「今日は着けてみたけど、明日は捨てる」という程度で、映画を通り抜けている。

「鑑賞」は、受信によって自己が変容する可能性を開いている。もしかしたら、この映画で自分の人生が変わるかも知れない、という覚悟がある。オープンなマインドで、血肉化するべく映画を見てるんです。
だから、時間と労力を割くことをいとわない。

映画を見るたびに人生観が代わっていたら、現実生活を送ることができない。100本みて1本の「当たり」があるか否かです。たいへんコスパが悪い。タムパが悪い。

「消費」は手段、「鑑賞」は目的

もうちょい広げるなら、
情報として映画を「消費」するひとは、受信するという行為は手段です。最新の流行についてゆける、知識量が増える、という目的があって、その前段階、もしくは側面として、手段として受信している。
作品として映画を「鑑賞」するひとは、受信という行為そのものが目的であり、その瞬間・瞬間ですでにして目的を達成しているんですね。

「消費」が下賤で、「鑑賞」が高貴なんだ、という善悪二元論にするのはあまりにも安易でしょう。情報として映画を「消費」するのは、「鑑賞」すべき作品、好きな作り手を発見するためのスキャニングかも。
よい作品に出会うための手段として「消費」し、すなわち映画を早送り・10秒飛ばしでチェックし、出会えたのちに「鑑賞」すればよい。

このように理解すれば、両方の行為は矛盾しない。本のなかでも、「ふだんは早送り・10秒飛ばしだが、好きな作品に限っては、等速で何回も見る」という「消費者」の声が多数派として紹介されていました。

大学の授業も映画と同じ

長々と書いてきましたけど、ぼくが当事者として臨んでいる関心事は、大学の授業です。早稲田大学では、「映像データ」で配信された授業を、不正な方法で再生したとして、単位を認めなかった。
卒業できなかった学生は、就職活動の内定取消になったり、進学が遅れたりしたのではないか。映像をどのように受信するかは、もはや人生を左右する問題なんですね。

授業も「動画で配信」される時代。映画と同じで、授業も早送りで見ることができます。
出席点を稼ぐには、ステータスを「閲覧完了」にする必要がある。10秒飛ばしは、搭載されていない。

仕様上、最後の3秒~末尾だけ再生すれば、ステータスが「閲覧完了」になるかも知れない。10秒飛ばしどころか、89分50秒飛ばしが出来てしまう(1コマは90分です)。だが、再生ボタンだけ押して、家事・散歩・昼寝をすればいいのであって、「○秒飛ばし」「○分飛ばし」は、裏ワザとして不要だ。電気代が少々かかるだけだ。

授業動画も同じで、
・情報として「消費」し、知識量・話題性を得る
・作品として「鑑賞」し、人生や価値観の変容を楽しむ

自分もそうだし、周囲の感触も同じですが、授業動画は、あっとうてきに「消費」の対象なんです。しょせんは、録画して擦り切れたデータに過ぎないし、自分が見ても見なくても同じだ。
※デジタルデータは擦り切れないが

授業動画は、自己を変容する可能性がないものとして、受信されている。だから、受信の時間効率のみが追求される。
もっといえば、オンライン授業で、世界のどこかで教授がリアルタイムで講義していたとしても、自分に発言する権利がない、もしくは発言する義務がない場合も、完全に授業動画と同じだ。「消費」するだけだ。

自己が変容する可能性が開かれていない講義って、
それ、教育か???

たびたび文句を言ってる、「教育したからね」「教育されましたよ」っていうアリバイ稼ぎのための、ブルシット・セレモニーじゃん。
単位を取ることは、面倒なタスクに過ぎない。いかに効率的に片付けるかを、学生たちが情報交換しあっている……。むかしから熱心でない学生は無限にいましたが、Netflixみたいな動画発信の技術・受信態度が背景となり、大学のブルシット・セレモニー化を加速させてます。

皆さんも勤め先でやらされる、退屈でムダな時間の代名詞、「イーラーニング」ってのが昔からありますよね。映像データを見て、確認テストに合格して下さいね、ってやつ。
あれは、映像データの「消費」で構わないんですよ。だって、たかが「イーラーニング」で仕事のしかたとか、人生観が変容するわきゃない。そういう期待がもともとない。情報共有がすめば終わりです。

『映画を早送りで観る人たち』は、映画の作り手にとって、思うところが多いでしょう。よーく分かります。しかし、『授業を早送りで観る人たち』が大量発生するような構造や環境って、大学教育の死ですよねー。

筋の通った経緯があって、卒業に必要な単位数が決まっているんでしょうけど、教育・学生ともにウンザリしているなら、単位数を減らすとか、1コマで得られる単位の倍増キャンペーンとか、やってほしいです。
ひたすら、学生に映像の早送りをさせることに、意味がないんで。

映画などの映像コンテンツも、配信数が供給過多だ。「最新流行の話題にキャッチアップする」ために、消化すべき情報量が多すぎる、と上の本に書かれていた。大学(院)の単位数も同じに思える。
話の発散は慎みたいが、映像コンテンツの供給過多は、配給元を食わせるため(濫造しないと採算が維持できない)。大学(院)も、教員に食わせるために単位数を減らせない、というのは全然ありそう。別に考える。

もしくは、おもしろい学問分野、興味がもてる教授を発見するためのスキャン(宝探し)として、ざざざーっと早送り・10秒飛ばしで講義を見せる、見まくる。
そう割り切ってしまうのは、アリかも知れません。
ただし、動画の人気投票みたいになっても、学問の本筋から逸れそう。教える側が、ユーチューバーみたいにアクセス数、視聴維持率(途中で離脱されない)を競うようになったら、この世の終わりです。
技術と社会は、双方向に影響するものでしょう。技術を敵視して閉め出すのは違う。でも、教授が技術の奴隷になるってのはもっと違う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?