隠者と、アンチ資本主義・アンチ貨幣経済

佐藤です。きのう授業で読んでいた資料で、「隠者」が出てきました。「隠者」はタロットカードにも出てきますが、ぼくは東洋哲学コースに所属しているので、古代中国の隠者です。

いまの日本で経済活動をするならば、「会社員になるか、公務員になるか、自営業者(フリーランス)になるか」という3つの選択肢があります。しかし古代中国においては、基本的に、「国家(統治者)に仕えるか否か」という選択肢しかありません。世に出る方法は一択であり、世に出るというのは、君主に仕えることです。
しかし、君主に仕えることにNOを出すひとは、一定数います。時代環境に応じて、かれらが「仕えないこと」を支えるロジックは変化するんですけど、「無礼なあいてから強引に召し出され、悪い政治に加担させられるぐらいならば、ムリヤリ仕えなくてもいいよね」というポジション取りは、ひとびとから尊敬を集めて、敬意を払われ、畏怖が向けられる対象となり得ます。

現代日本では、「会社員になるか、公務員になるか、自営業者になるか」という複数の選択肢があると書きました。選択肢が分岐している時点で、かなり自由度が高いのだ、近代はいい時代だ、、と言いたいのではなく、古代中国の隠者たちが立ち向かったもの、メンタリティをたとえるならば、それは別のところにあるのではないか。
貨幣経済、資本主義に背を向ける。
これが隠者のありようでしょう。ひとを不幸にし、人間の尊厳をないがしろにする社会システムのなかに組み込まれ、だれかを虐げて、おまけに地球環境の破壊に加担するくらいならば、貨幣経済から脱却し、資本主義にNOをつきつける。という感じ。
尊敬を集めるし、敬意を払われ、畏怖を向けられるだろう。みんな潜在的に、そうした隠者への羨望、あこがれがあるけれど、「そう言っても、現実的な生き方ではない」という複雑な感情があるから、隠者は存在感を持つのではないか。

そして、ぼく自身が身に覚えがありますし、書店の本の並びについても言えると思うんですけど、「株式投資、仮想通貨でおおもうけ!」という本と、「資本主義を脱却し、自給自足しよう」という本は、隣りに並んでいるように思います。両者は、正反対の態度をとっているように見えて、共通のメンタリティから出ているのでしょう。
単純化し露悪的?な言い方をすれば、「自分の好きなように生きるために、社会の前提をぞんぶんに利用してやろう」という気持ちです。好きな言い方じゃないですけど、「ハックする」というやつ。

隠者も、根っからの無政府主義者とか、平等主義者として、君主に仕えることを避けているのではない。十分に尊重されて活躍の場を与えられ、善政に協力させてもらえるならば、是非とも仕官したいんですよね。

社会は分断が進み……という文脈で語られることが多いです。持っている財産の多寡だけに着目すれば、それはそうなのでしょう。「貧乏人は一番ゆたか」なんて、詭弁でしかないと思うので。
しかし、主義主張とか立場の取り方って、分断されて正反対に見えても、背中あわせ。円環のように繋がっているのではないか。『孟子』を読んでいて、そんなことを思ったのでした。

『孟子』?ああ、性善説の?……??で知識が止まるのが普通だと思うんですけど、じっくり読んでいくと、わりと葛藤をはらんで血なまぐさいです。

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