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ネットとのベストな付き合い方/受信用と発信用を使い分ける

佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで三国志の研究をしてます。
思うに、今日のインターネットは、ディストピアです。関連記事は末尾にあげます。…とはいっても、インターネットは便利ですよね。
勉強や娯楽を捗らせるため、ネットで、文章や動画を発信したい。アウトプットのツールとして活用したい。

では、どのように、ネットと付き合えばいいのか。
ぼくなりに答えは出てます。2007年3月に、三国志に関するホームページを公開し、活動拠点にしています。1日に数千のアクセスがあります。活動を通じて、出た答えがあります。

アカウントやサービスを、発信用と受信用に切り分ける。
#ここが結論

【秘伝】発信用のアカウントの使いかた

大切なことなので、詳しくお話をさせてください。

発信用のアカウントやサービスでは、基本的に、ご意見ご批判アドバイスは受け付けない。受け取らない。
特定のだれかをブロックするんじゃなくて、原則的に全員をブロックする(くらいの心持ちでいる)。あえて、コメント無用!と、公言する必要はありませんが、反響は要りません!と割り切る。
一方的なスピーカーとして、しゃべるだけ。

ごくたまに、ネットにおけるコメントで、うれしい化学反応が起きます。しかし、99.9%以上は、勉強の役に立たないか、精神的に、イガイガさせられるだけのノイズです。
適切なご指摘であったとしても、「それを言うあなたは誰?」「なんでそんな言い方をされなきゃいけないの?」って思います。人間だもの(笑)

発信した内容に対し、おもしろい、役に立つ、と思って頂いたら、
無言のアクセスが、何よりもの宝、
ありがたい反響であると、ぼくは考えています。無言のリツイート(拡散)や、無言の「いいね」、ときにはお金を通じた応援などは、とても嬉しいことです。でもそこに、言葉は要りません。
※ お金は究極の「匿名」ツールです。

「いいね!」すら、情報量が多すぎると思っており、「見たよ!」でいいでしょう。発信者を勇気づけるフィードバックは。
フェイスブックでは、「いいね!」のほかに、いろんな表情のボタン(おどろき、いかり、かなしみ)がありますが、まさに蛇足。ユーザーの時間とメンタルを盗むための、陰謀論ですよ(笑)

むかしの(ネットが普及する以前の)学者や作家は、タイムリーに反響なんか受け取らなくても、いいものを発信してました。あのイメージ。

ユーザー同士の交流機能を「利用」する

フェイスブックなどのプラットフォーマー(SNSのサービスの提供者)は、サービスへの忠誠度をあげ、ユーザーの滞在時間を延ばそうと、さまざまな交流ができる(と見せかけた)仕組みを提供しています。
が、べつに、必ず利用しなければならない、という道理はありません。

閲覧者同士が、ぼくのコンテンツを集合場所にして、ケンカするのは自由です。が、ぼくが参加する必要はありません。
むしろ、発想を逆転させましょう。
プラットフォーマーが用意した仕組みを利用すれば、ぼくは、自分自身の時間を奪われず、しかし、ぼくのコンテンツへのユーザーの滞在時間が延びます。結果、ぼくの影響力が上がったら、ラッキーです。
利害が一致するものとして、便乗してやれ、と思うぐらいです。

たとえば。
過去にぼくがyoutubeに上げた動画で、コメントに、「ご高説」が大量に書き込まれたものがあります。ぼくは、読まずに「いいね」を押してます。ほぼ、おそらく全部が、読むに値しない内容です。
(ちゃんと読んだことないから、何とも言えないっす)

学会発表の質問タイムに、本題と関係のない「ご高説」を長々と披露し、けっきょく、何が言いたかったのか分からない、というひとがいますよね。アレです!!!!
(心当たりがあるひとには、非常に分かりやすい説明)

でもまあ、自説を披露できる場所だと誤認して、ついでに、ぼくの動画の再生回数を回してくれたら嬉しいので、コメント欄は閉じません。

ネットでの出会いについて

ここまで書いたように、反響やコメントを、心理的に&実質的に拒絶しています。それぐらいにしないと、メンタルに悪い。いろいろあって、メンタルは鍛えられましたが、依然として、どこのだれだか分からないひとに、集中力を削がれるのは、イヤです。
この記事は、ぼくのnoteにコメントをしないで下さい!という意味ではなく、一般論・全般の話として聞いてください。いただいて嬉しかったコメントには、返信しています。
(それぐらい、ネットは魔境である、と言いたいだけです)

ぼくのような自閉的なポリシーを持っていると、ネットを通じて、同好の士と出会うことができないじゃないか?!と、お思いかも知れません。
そうですよね。ひととひとが新しく繋がるのも、ネットの優れた機能です。これを拒絶するのは、損失ではないかと。

しかし、ぼくは心配していません。本当に出会うべきひとは、なんやかんやで、接点が生まれます。そのときに、「そういえば、あなたのことをネットで知っていた」というかたちで、役に立ちます。
迂回して、ネットがひととひとを結びつけてくれるんですよね。このあたりが、いかにも文化人類学っぽくて、なんか楽しいです。

受信用のアカウントの使いかた

最後に、受信用のアカウントですが、これは、匿名&無責任&気ままで構いません。いわゆる「捨てアカウント」と同義です。見たいものだけ見て、飽きたらすぐに立ち去ればいいでしょう。論ずべきことはないです。

おもしろいと思ったコンテンツに、無言でアクセスするだけ。
このような匿名の受信者たちが、マス=大衆となり、優れた発信者のもとに、広告収入などを運んでくれたら、それで幸せです。ネットってそんなもんです。

っていうか、「ぼくが書いたものを楽しんでくれるひと/…が書いたものをぼくが楽しいと思う」なんて、奇跡でしょう。
めったに出会うことができない、極めて親しい友達レベルです。夫婦だって、冷え込んできたら会話が擦れ違うのに。
やはり、発信用と受信用は、別でいい。というか、そっちのほうが自然です。せっかく、無料で、無限にアカウントを作れる時代なのですから。

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