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生き方を教えてくれた三浦春馬のいた時間

小学生の頃、気付けば難病と戦うノンフィクション本を多く読むようになっていた。元々、本は好きな方だったと思うけれど、幼少期の絵本(童話)から始まり、伝記や前述したノンフィクション、それから魔女や魔法が登場するファンタジー、お化けが登場するオカルト系あたりが好みの本だった。(オカルト本の代表格『ムー』なども好物だった。)

病気の人を取り上げたノンフィクション本はおそらく読書感想文などのテーマとして書きやすいから、読んでいたのかもしれないけれど、でもそれにしてもどうしてあんなに闘病ものばかり読んでいたのか、改めて考えた時、気付いてしまった。

私はきっと、過酷な病気と戦っている人と自分を比べて、自分の方が恵まれているんだから、がんばれると無意識のうちに自分が優位になれる対象の本を探していたのかもしれないと。それに気付いたら、自分が愚かな人間に思えて、ノンフィクション本から遠ざかるようになった。

でも避けるようになっても、やっぱりドラマ等も闘病ものは見たくなって、時々見ていた。中でも三浦春馬さんが主演したALSを取り上げたドラマ『僕のいた時間』が印象深い。ノベライズ本を時々、見返したくなる。その中でまさに自分が思っていたことを台詞として言ってくれている登場人物がいた。

「けっこういるんじゃない?誰かに勝って、安心しようとするやつ。自分に自信がないから。」
「あいつが病気だってわかった時、俺、なんて思ったと思う?これで俺は、ずっとあいつに勝てるんだって。最低だろ。」

三浦春馬さん演じる拓人の先輩・恋敵でもある繁之の言葉はまさに自分の心を代弁してくれた気がした。
世の中にはこんなに苦しくつらい思いをしながらも、必死で生きている人もいるんだから、健康な自分はがんばれるはずだと小学生の頃、そう思いながら、読書していたのかもしれない。つまり何かつらい思いを抱えて生きていたのかもしれない。自分はアダルトチルドレン(AC)の傾向があるから、きっと子どもの頃、苦しいことがあったんだと思う。だから自分より健康面で恵まれていない人の本を読んで、安心してしまっていたのかもしれないと。それってすごく失礼なことだったと今は思う。

このドラマはメインとしてはALSを取り上げているものの、実は裏設定でACも取り上げているような言動が多々あり、だからなおさら興味を持った。はっきり言って、うちの家族と似ているというか、家族構成が同じ過ぎて(もちろん親は医者ではないけれど)、最初はALSというテーマに惹かれていたはずが、いつの間にか主人公だけでなく、主人公を取り巻く周囲の人々からも目が離せなくなった。こんなに主人公以外、それぞれの脇役の心情も丁寧に描き、かつ登場したすべての人たちの心も成長する作品はあまり多くはないと思う。このドラマは間違いなく名作だ。

拓人の弟である陸人は発達障害の傾向があり、他者とうまくコミュニケーションが取れず、医学部に入学するものの挫折を味わう。この弟の設定がかなりこのドラマのポイントになると思う。

「(陸人は)人とのかかわりがうまくいかなくて悩んでる。(中略)簡単に直せることじゃなくて苦しんでいる。(中略)俺は、ひと目見れば、誰にでも助けが必要な人間だって、気づいてもらえるけれど、陸人は誰にも気づいてもらえない。

これはALSが進行し始めた拓人が言った台詞だが、この簡単には誰にも分かってもらえない病の苦しみこそ、ALSがもっと進行して人工呼吸器を装着した後の拓人の気持ちを予見したものに近い。

「体が動かなくて…顔の筋肉も動かせなくて…誰にも気持ちを伝えられなくて…。そういう状態で生き続けるって…どういうこと?」
「死にたいわけじゃない。生きるのが怖いんだ…」
「痛みを感じたら?体が痛いって、伝えられなかったら?苦痛にひとりで耐え続けるしかない」

言うまでもなく、ALSは本当に残酷な病気で、まず手足が衰えて、日常生活に支障をきたす。病気の進行は個人差があるらしいけれど、拓人の場合は趣味のサッカーができなくなり、PCのマウス操作も困難になり、ペンもうまく持てなくなり字が書けなくなる…睡眠時無呼吸に陥ることも増え…というように悪化していった。
自力で呼吸ができなくなっても、人工呼吸器をつければ生きられる。けれど人工呼吸器は一度つけたら外せない。つまり簡単には死ねない。装着すれば、しゃべられなくなるし、(話せないということはもちろん歌も歌えなくなるんだなと。)食べられなくなる。その間にも病は進行し、全身の筋力が衰えて、どこか一部の筋力さえ動かなくなってセンサー機能のついたPCなどさえ使えなくなったら、自分の気持ちを伝える手段が一切なくなったら…孤独に陥る恐怖は想像を絶する。

発達障害の場合、言っていいことと悪いことの区別がつきにくく、自分の気持ちをダイレクトに相手に口走ってしまうこともある。それによって、他者から避けられたり、嫌われたりして、結局孤独になってしまう。ある意味、ACと真逆というか、ACの場合は他者の評価を気にするあまり、好かれようと努力して、自分の本心を隠して相手好みを演じてしまう。ALSと違って、しゃべろうと思えばいくらでも話せるのに。ACも発達障害も生きづらさはあるけれど、でもALSと比べたら身体の筋力は健康なのだから、どうにかすれば相手とコミュニケーションとれるのだから、救いがある。嫌われたとしても、他者に自分の気持ちを伝える術を持っているのだから、まだ恵まれている。この3タイプの中でやはりもっとも過酷だと思うのはALSで、筋力の衰えで話したくても話せなくなり、コミュニケーションを取りたくても、相手に何か伝えたくても伝えられなくなる可能性があり、いたたまれない。こういうことを上手く伝えるために、ALSの作品の中に(明言は避けられているものの)ACや発達障害を匂わす設定を含めた点がこのドラマの良さである。
しかしALSで筋力が衰えても、嗅覚や触覚は残るらしい。つまり痛いとか痒いという感覚が残る分、もっと残酷だと思うのだ。

なぜ今になってこのドラマを回想しているのかというと、それには少し理由があって、もちろん三浦春馬さんが急逝してしまったこともあるけれど、個人的に水平埋伏親不知の抜歯をしたばかりで不安に駆られていることが一番大きな理由だ。後遺症が残る場合もあると説明されて、恐怖になり、でも抜歯を終えて、少しずつ腫れも引いてきたものの、ドライソケットという痛み止めも効かないほどの痛みが出る人もいると知って、それに怯えて過ごしているせいかもしれない。抜糸までは油断できない。
もしもドライソケットの耐え難い痛みが出たらどうしよう。よりによって連休でかかりつけの病院は開いていないし。なんて不安に怯えていたけれど、誰かに「痛い、助けて。」と伝えることはできるから、まだマシなのかなと気付かされた。

腫れがひどい時は口を開けられないから、食事もまもとにとれなかった。柔らかいものを少しずつ抜歯していない反対側で食べるしかない。口が開きづらい分、しゃべりにくい。レベルは全然違うんだけれど、難病と戦っている人の気持ちが少し分かった気がした。人工呼吸器をつける前のような、これが最後の食事になるかもしれないとか、しゃべられなくなるとか。抜歯の場合はよっぽどひどいケースでなければ、数ヶ月かけて患部は完治するから、希望がある。時間が経てば普通にしゃべられるようになるし、以前と同じように好きなものを食べられるようになるだろう。日毎に回復を感じられるから、がんばろうって思えるけれど、でもALSや難病の場合、悪化することはあっても、良くなることはない。回復する見込みがないのに、呼吸器をつけて生き続けろというのは残酷だなと思ってしまう。私だったら、きっと保と同じように呼吸器をつけないと思う。

「私は、人工呼吸器を着けない。人工呼吸器を着けずに死んでいくわけではない。人工呼吸器を着けないという生き方を、私は選んだのだ。

このように拓人と同じ病気の保という登場人物もまた、重く考えさせられる台詞を残している。
延命できるなら、呼吸器をつければいいと、この病気を知らない人は簡単に考えるだろう。でも先にも述べた通り、一度つけたら、たとえすべての動かせる筋力がなくなり、誰にも自分の意思や感情を伝えられなくなっても、死ぬまで生きなければならないのだ。痛くても痒くても、悲しくてもつらくても、ひとりで耐えるしかない。しかもたくさんの人の手を借りて生き続けることになる。そんな未来が待っているのに、簡単に呼吸器をつけたいとは思えないだろう。

保という人物は「柔らかい安全なものじゃなくて、危険でもちゃんとした食事がしたい」つまり「生きている実感を持ち続けたい」という考えを持っている患者だった。拓人とは対照的で、ヘルパーさんにも本音をずはずば言うし、AC気味の拓人と違ってある意味ちゃんと自分の人生を生きている人だった。だから人工呼吸器で生かされるような生き方は選ばなかったのだと思う。闘病生活がつらいとか、未来に絶望したとかそういう低次元の感情で判断したわけではなく、自分の誇りとか尊厳で、自身の信念による生き方を貫いた例だと思う。そもそも呼吸できなくなるのだって、相当つらくて、呼吸器がほしいと思ってしまうかもしれないのに、その気持ちを消し去って、保は潔く息を引き取った。それは安楽死ともちょっと違うと思う。今年、現実でALS患者に依頼され、安楽死させた事件が発覚したけれど、それとこれとは話が違うと思う。呼吸器をつけない=安楽死に近いわけではなく、それは唯一日本で認められているALS患者に対する生き方の選択肢だと思う。

医学が進歩したからと言って、延命ばかり推し進めるのではなく、やっぱりどこかで自分の命は自分で決められる時期があって良いと思うのだ。ガンになったからと言って、必ずしもつらい治療を受ける必要はないと個人的には考えている。臆病な性格もあるけれど、でもそういう生き方があってもいいんじゃないかなと思ってしまう。(実際、叔母がそういう風にガンでもろくに治療しないまま、亡くなったのを見ている。)病気と戦わないと逃げた、卑怯とか意気地なし、心が弱いと思われてしまうけれど、安楽死が認められていない以上、本当に苦しくなる前に、治療するかしないかくらいは自分で判断してもいいと思う。医者や家族に自分の命を委ねるんじゃなくて、自分で判断できる状態なら、ひとりで決めても構わないと思う。このドラマの言葉を借りれば、誰も自分の人生を代わってはくれないのだから。

一方、主人公・拓人の方は、「生きるのが怖い」と思いつつも、周囲の人たちから「生きてほしい」と言われ、さらに自分が生きていることで、周囲の人の気持ちを変えたり、例えば家庭教師をしていた子が「先生みたいな病気の人がまた歩けるようになるためのロボットスーツを開発したい」と目標を持って勉強に励む成長した姿を見せつけられたりして、保と同じように人工呼吸器はつけないと考えていたものの、気持ちは変わった。

「病気になる前の僕は、特にこれといった目標もなく、漠然と毎日を過ごしていました。自分ってものがなくて、家族にも本音を隠し、いつだってキャラクターを演じている自分のことが、好きじゃありませんでした。(中略)僕は、この病気になって、何度も覚悟をしてきました。(中略)僕はたくさんのものを病気に奪われてきました。(中略)目標を見つけては失うことのくり返しです。(中略)気持ちだけは、病気には奪えません。この先、全ての目標を奪われたとしても、僕が目標に向かって生きたという事実も、奪われないのです。(中略)僕を支えてくれるのは、それまでの生きた時間、僕のいた時間なんじゃないか。僕は覚悟を決めました。生きる覚悟です。

こうして拓人は人工呼吸器をつけて生き続けるという、保とは逆の自身の生き方を選んだ。皮肉な話だけれど、拓人はALSになったからこそ、ACを克服して、演じることはやめて周囲の人たちと本音で話せるようになった。難病になったからこそ、得られた幸せもあるのだ。人と向き合えるようになり、信じられるようになり、自分のことがちょっと好きになったとも語っている。

ACの元凶になったような親たちもまた、息子のALSをきっかけに、変わった。息子たちの人生を思い通りにしようと世話を焼き続けた母親は過干渉をやめたし、世間体を気にしたり、仕事一筋だった医者の父親も医者であるからこそできる難病患者と家族の支援に乗り出す。世間のためではなく、はじめて自分の家族を意識するようになる。医者になれなかった息子たちのことも侮辱することなく、誇れるようにもなった。
陸人もまた兄のALS発症をきっかけに、自分の発達障害と向き合うようになり、少しずつ他者とコミュニケーションがとれるようになった。拓人が病気になったからこそ、家族は健全な姿に変われたのだ。

拓人の恋人、友人たち、先輩だって、拓人のおかげで、良い方に変わった。他者の手を借りてしか生きられない自分は誰にも何もしてあげられないと嘆いていた拓人だったが、これは『相模原障害者施設殺傷事件』でも考えさせられたことでもあるけれど、やっぱり重度障害者も他者に与えられる「何か」は必ずあるとこのドラマを見て、思い知らされた。

動くことなくただ息をして生きているだけで、何になるのかとか嘆く必要もないし、議論する必要もない。そのただ息をして生きている人を見て、体を動かせるようになるように、病気を緩和させられるような研究をしたいと志す人もいるだろうし、ただ傍に寄り添って、一緒に生きていることを感じてもらいたいと介護する人もいるだろう。動けなくても、耳が聞こえるなら、音楽を聞かせてあげることだってできるし、耳が聞こえないなら、目で何かを見てもらうことだってできるし、目が見えないなら、体に触れて人の温もりを感じてもらうこともできる…。その動けない人の傍にいて同情したり嘆くのではなくて、その人からもらえるパワーというか「何か」がきっとある。介護する人は精神がしっかりしてないと事件の犯人のようになってしまうから、限られた人しかできないけれど、でも介護しなくても、そういう難病と戦っている人もいるということを知ることだけは必要なんじゃないかなと思う。だから知るためには、ノンフィクションの本を読んだり、こういうヒューマンドラマを見ることは大切だと考える。

こんな素晴らしいドラマで主役を演じきった三浦春馬さんが保のように延命治療をしないという生き方を選んでしまったことが悔やまれる。自死したのではなく、死ぬという生き方を選んだ気がするのだけれど、ドラマでは壮絶な運命を背負っても理想的な未来を描けても、現実はうまくいかないものだなと。もしかしたら陸人のように誰にも気づかれることなく、人知れず人との関わりで悩んでいたのかもしれないし、ALS発症前の拓人のように、俳優として生きるが故に自分がなくて、周囲にも本音を隠し、いつだってキャラクターを演じて生きるのがつらくなってしまったのかもしれない。リアルはドラマのようにうまくはいかない。リアルがうまくいかないからこそ、ドラマ(創作作品)に救いを求めて、そこから生きるヒントをもらって私たちはかろうじて生きているのかもしれない。

話は脱線するけれど、少し前に書いたBUMPチャマのことについても、作品(楽曲)を作ったり、演奏する時はドラマの主人公みたいなキャラになりきって、立派なこと、偉そうなことを言いたくなるのは仕方のないことだと思う。リアルで真逆な生活送っていると、自分は悪者ではなく、ヒーローだって思いたくなる場面ってあると思うから。理想的な自分像をどこかで表現したくなるのは人間の性ではないか。

話は戻って三浦春馬さんは素晴らしい俳優であったと同時に、様々な役柄を演じることによって、本当の自分の人生を模索していたのではないかと思う。どう生きていけばいいかとか、どんな自分になれば良いかを俳優業を通して、真剣に考えていた気がしてならない。真面目に考えすぎて疲れてしまったのかもしれない。拓人を好演したからと言って、拓人のような未来は築けなかった。だからドラマと違って、現実は残酷だ。

家族関係だって、ドラマのように簡単に「はい、病気になったから、絆が強まって、家族間のわだかまりも修復しました」とはいかない。うちもこのドラマの家族関係と似ているとは言え、妹の病気が発覚し、自分も健康を損ないつつあるからと言って、ドラマと同じように家族関係がそう簡単に良くなるわけがない。苦しいからこそ、私は理想的な人間像を想像して、創作に反映させている。綺麗事を書きたくなるということはつまりそれだけリアルで歪みが生じているわけで、良い事を書けば自分が少しでも善人になれる気がして書いているだけと最近は思っている。だから「言っていることと現実の生活が違う」とか「口先ばっかり、口ばかり達者」とか言われることがあるんだと思う。別にいいじゃんと開き直っている。現実がうまくいかないからこそ、キレイなものを書くんだよと。理想的な世界を描きたくなるんだよと。自分がたいしたことはできない行動力もないダメ人間だから、頭の中で考えたことを言語化することしかできないけど、それでいいじゃんって。ACになって本音を隠したり、もしもALSに罹患して自分の思いを誰にも伝えられなくなるよりは、口先ばかりって罵られても、自分の気持ち言えるうちは伝えられるうちは、書き続けていいじゃんって割り切るようになった。

自分の気持ちを書くということは良く思われるばかりでなく、悪く思われる場合もある。拓人と同じく、本音を言えば嫌われるとか、避けられるのが怖くて、都合の良いキャラ、良い子演じていた時期もあったけれど、そんな人生は退屈だった。生きている実感がなかった。でも検診でひっかかって、人生長くないかもしれないって気付いた二年前から遠慮して生きてる場合じゃないって強気になれた。親から世間体がどうとか、ネットで叩かれるかもしれないとかそんなことを考えるよりも、自分の本音の考えを残そうと他者からどう思われようとも、書いて伝えるようになった。だから自分の人生を自由に生きられるようになった気がして楽しい。ファンタジー作品の場合は理想的な世界を作ってその中で登場人物の口を借りて自分の本音を書く場合が多い。そっちの方がどこまで本当かごまかしがきくから、今はノンフィクションよりフィクションを書く方が楽しいかもしれない。こういう風に生きられるようになったのも、『僕のいた時間』という作品からも影響を受けたためで、拓人を演じた三浦春馬さんには感謝している。
私もいつかこんな素晴らしいと思ってもらえるような作品を書けるようになりたい。
今回はノベライズ本を見返しながらこの記事を書いたけれど、読んでいるうちにまたドラマを見たくなった。三浦春馬のいた時間を感じたくなった。

〈追記〉今さら気付いたけど、拓人の実家は山梨の設定で、山梨に帰郷した時、駄菓子屋に立ち寄るシーンなんかもあって、なんかフジファブリック「陽炎」も蘇った。志村くんも思い出せる作品だった。臆病な気持ちと葛藤し続けた拓人とか、「見つけては失うことのくり返し」とか志村くんっぽい。

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