見出し画像

『「天体観測~若者のすべて~」〈前編〉空と宙の過去』

 夏祭りで華やぐ街の片隅で、俺は空を見上げていた。アニメキャラクターのお面をつけて、綿あめ、水ヨーヨー、小さな袋に入れられた金魚を持ってはしゃぐ子どもたちの波に逆行するように、花火会場の沼から一番離れた小高い丘の上に望遠鏡を担いで登っていた。
 
 夏祭りなんて、花火なんて嫌いだ。元々あまり興味なかったけれど、あの日以来、ますます苦手になった。花火さえなければ、今頃きっと未だに変わらず「あいつ」と一緒にこうして望遠鏡を覗き込むことができていただろう。生涯に一度しか見られないレアな天体ショーをたくさん一緒に見守ることができていただろう。花火さえなければ。俺にとって花火は関心のないものから、忌み嫌うべき存在に変わっていた。

 よりによって、また彗星の最接近日と花火の日が重なるなんて。俺はうんざりしていた。でもみんなの視線は花火に釘付けだから、この街でこんな花火の夜、彗星を見つめているのはおそらく俺しかいないだろう。彗星を独占している気分にもなれて、悪い気はしなかった。みんな、分かってないよな。花火なんて毎年見られるし、所詮人間が作った人工物じゃないか。それと比べて、彗星は人間の手を加えることはできないし、地球に接近するのが数千年周期のものだってあるというのに。

 そんなことを考えながら、望遠鏡でしか見ることのできない肉眼では見えないその星を必死に記憶に留めようとしていた。
 遠くでドーンドーンと花火が打ち上げられる音が聞こえる。せっかく静かに彗星を楽しんでいるというのに、少し煩わしいな…なんて騒音に気を取られて、望遠鏡から目を逸らすと、ふと、近くに人影が見えた。
 こんな離れた場所から花火を見ようとしているのか…もっと条件の良い場所から見ればいいのに。森の木々が花火会場の沼を遮っているから、ここでは誰も花火鑑賞するわけないと思って、この丘を選んだのに、うっとおしいなと思い、再び望遠鏡を覗き込もうとした瞬間、
「あの、すみません、少しだけその望遠鏡、貸してもらえませんか?」
と不意に声を掛けられた。驚いて振り向くと、俺の後ろにひとりの女性が立っていた。
「高い所に登れば、肉眼で見えるかなと思って来てみたんですが、やっぱり見えなくて…彗星を探しているんです。」
二十代と思しきその女性は、澄んだ白い肌がとても印象的で、綺麗な人だなと思わず見とれてしまった。
「今回の彗星はどんなに高い所に登っても、肉眼では見えないですよ。それにしても珍しいですね、花火の夜に彗星なんて。」
女性はクスっと微笑んで、こう言った。
「あなただって、花火より彗星を選んだのでしょ?あなたと同じ気持ちです。」
この人のまっすぐ見つめる大きな瞳…どこかで見たことあるような気がする。なんて消し去ったはずの記憶を必死に思い返そうとしていた。
「たしかに、俺も花火より彗星派です。というか夏祭りより、天体観測派です。どうぞ、望遠鏡お貸しします。」
「ありがとうございます。でも私は夏祭りも花火も嫌いではないんです。嫌いではないけど、苦手になってしまったというか…。」
彼女は望遠鏡を覗き込みながら、そんな妙なことを言い出した。なんだか似ているな。俺も嫌いというよりは苦手になってしまったんだ。見たくないと目を逸らしたくなったんだ、あの日以来。
「キレイ…白い長い尾を引いていて。肉眼では見えなかったけど、たしかに今、宇宙に存在していて、地球に接近しているのね。」
「そうですよ、目では見えないだけで、存在しているんです。この空の上に近付ているんです。彗星だけじゃなくて、見えない小さな星がたくさん存在している宇宙のことを考えると、簡単に見えるものばかり追い求めようとする人間はどうかと思いますね。花火なんて所詮、人工物じゃないですか。」
望遠鏡から目を離して彼女は笑った。
「おもしろい方ね。言われてみればたしかに花火はただの人工物だわ。宇宙と違って、人間が作ったものだものね。お名前を伺っても良いですか?」
「俺は星影宙(ほしかげそら)です。空ではなく、宇宙の宙の方。名前の通り、子どもの頃からずっと趣味で天体観測してます。あなたのお名前は?」
俺の名前を聞いた途端、彼女は少し驚いた表情に変わった気がした。
「私は波木苺(なみきめい)って言います。最近、星空を見ることが趣味になって。宙さんって、空ではなく、宙のそらさんですか…。もしかして…ヒロさん?」
俺が彼女の波木という名字に驚き、消去したはずの記憶を呼び戻そうとしていると、彼女はもっと意外な言葉を呟いた。そう、俺の名前は本名はそらだけど、あだ名はヒロだったから…。
「そうです、宙はヒロとも読めるから、ヒロって呼ばれていた時期もありました。でもそれはごく限られた時期の人しか知らないというか…。それより波木さんって、この街の出身の方ですか?もしかして光(れい)さんの親族だったりして…?」
「そうです、光は私の姉です。やっぱり、あのヒロさんなんですね。空くんの友達のヒロさん…。」
こうして俺は見えない彗星が大接近していた夏の夜、あいつ、空(そら)と再会してしまった。厳密には空を知る人、光の妹さんと出会ってしまった。

 空と俺は幼馴染で、高校生の頃まで兄弟以上に親しい仲だった。お互い一人っ子で兄弟がいなかった分、仲良くなれたのかもしれない。俺が幼稚園児の頃、空はこの街に引っ越して来た。空の両親は名字から名付けた『風音-kazaoto-』というフラワーショップ、花屋をオープンし、住宅街の一角で密かに人気の花屋になっていた。
ある日、俺の母親が亡くなった祖父に供える花を求めて、俺を連れてその店に入ると、そこには俺と同じくらいの年齢の男の子が店番をしていたお母さんに駄々をこねて泣いていた。それが空だった。
「ダメだって言ってるでしょ。今日はお店が忙しいの。プラネタリウムはまた今度ね。」
「いや、きょう、いくの。おほしさまたちとあえるばしょにいきたいの。」
「星なら、家の庭から今夜も見えるから。今度のお休みまで我慢して。ほら、星の形のお花もあるわよ。」
「ぷらねたりうむなら、おうちではみれないほしがいっぱいみれるの。ほしのかたちのはななんていらない。」
空が母親から差し出された星の形の花をポイっと投げ捨てた。
「あの…すみません。仏花を探しているんですが…。」
親子ケンカを見かねた俺の母が二人の間に割り込んだ。
「いらっしゃいませ、すみません。ほらお客様だから、空はあっちに行ってなさい。」
空は店の片隅でひとりぐずっていた。
「その星型のお花、素敵ですね…。」
「こちらはカンパニュラのブルースターという花です。ポットなので、仏花には向いていませんが…。」
「じゃあ仏花とは別に、それも下さい。」
「ありがとうございます。」
母が空のお母さんと会話をしている時、俺は空に話し掛けた。
「もしかしておまえ、ほしがすきなのか?」
ぐずっている空はこくんと頷いた。
「おれのなまえすごいんだぞ。うちゅうのそら。宙っていうんだ。」
「えっ?うちゅうすごい!ぼくもそらってなまえだよ。空だけど。」
「なんだおれたちおなじなまえなのか。おれもほしがすきなんだ。おれのいえにはぷらねたりうむがあるんだぞ。」
「えっ?すごい!おうちにぷらねたりうむがあるの?みたい!」
さっきまでの曇り空が嘘みたいに、空は太陽みたいに目を輝かせて喜んだ。
「こんど、あそびにこいよ。」
「うん、そら、そらくんのおうちにいく!」
花を買い終えた母が俺たちの話を聞いて口を挟んだ。
「宙、うちにあるプラネタリウムはお父さんが作った手作りプラネタリウムのことでしょ?本物のプラネタリウムと比べたら、何も見えないわよ。」
「すみません、うちの子、プラネタリウムが大好きで。手作りのプラネタリウム、お時間ある時、見せていただけませんか?なかなか本物のプラネタリウムに連れて行ってあげる時間もなくて。」
空のお母さんも口を挟んだ。
「うちは構わないんですが、素人が作った、ただのちょっとした光ですよ…星に見えるかどうか…。それでもよろしければ。それにお名前、うちの子と同じなんですね。何歳ですか?」
「来年、小学生になる六歳です。名前も年齢も一緒なんて良いお友達になれそうですね。」
こうして俺たちは出会ったその日から、あっという間に仲良くなり、かけがえのない親友になった。まるでふたご座の星、ポルックスとカストルのようにその日以来、俺たちは同じ空の下で同じ時間を過ごすようになった。

 お互いの家は子どもの足では少し遠かったけれど、同じ街に住んでいたため、小学校・中学校は同じ学校に通った。時々、同じクラスになることもあり、名前が紛らわしいので、いつしか俺は「ヒロ」と呼ばれるようになっていた。

 別に自慢をするわけではないけれど、俺はそこそこ勉強ができたし、スポーツもできたし、人気があったし、女子からもわりとモテた方だと思う。
「ヒロ、即戦力になるメンバーが足りないんだ、今度の試合、出てくれないかな?」
と野球部やサッカー部のレギュラーでもないのに、頼まれることもあったし、
「ヒロくん、お菓子作ってみたの。良かったら食べて。」
なんて、女子からバレンタインでもないのに、何かとプレゼントもらっていた。
「ヒロさ、あんな暗い奴とばかりつるんでないで、俺たちと遊ぼうぜ。」
「風音くんのことなんてほっといて、たまには私と一緒に帰らない?」
などと自分では望んでいなくても、なぜかいろんな人たちから声を掛けられた。他の奴らが思うほど、俺は出来た人間ではないのに…。みんな見かけやうわべに騙されてるんだよな。なんて内心、良くしてくれる人たちのことを見下していた。
 そんな実は厄介でひねくれた性格の俺のすべてを理解してくれて、それでも側にいてくれて、心から気が合う友達は「空」だけだと信じていた。
「空は、暗い奴かもしれないけど、でもいい奴だよ。」
俺は他の連中からの誘いをそんな風に断っていた。
「空くんも実は隠れイケメンかもしれないけど、なんか暗くて近づけないオーラがあるっていうか。」
女子が言う通り、俺なんかより空の方がイケメンだと思う。でも泣き虫だったし、わがままだったし、ちょっと暗かったし、雰囲気で損している面はあったと思う。でも俺なんかより、自分に正直な気持ちで生きていて、清々しい奴だと俺は感じていた。そういう、みんなからは毛嫌いされる、空の面倒な性格さえ、俺は嫌いじゃなかった。むしろ自分の本心をあまり見せずに、良い子として取り繕っている自分なんかより、暗い性格、自分を陰キャラと押し通して、別に誰にも好かれようともしない空は潔くてかっこいい奴だと思っていた。
「僕のことなんて構わないで、たまには他の子たちと遊んで来たら?いろいろ誘われているんでしょ?サッカー部とか、野球部とか入らないかって。僕と違って、宙は運動もできるんだし。」
空はいつものように望遠鏡を覗きながら、呟いた。空だけは俺のことを宙(そら)と呼び続けていた。それがなんだかうれしかった。
「スポーツなんて興味ないよ。俺は星の方が好きなだけで、別に空がいつもひとりだから一緒にいてあげたいとかじゃなくて、俺が空と一緒に空を見上げていたいだけだから。気にするなって。」
「ありがとう、それなら安心した。」
空はニコっと微笑んで、また望遠鏡を覗き込んだ。この望遠鏡はそれぞれ貯めたお小遣いを合わせて、やっと一台購入した兼用の望遠鏡だった。ふたりでひとつ。俺たちは交互に肉眼では見えない宇宙を覗いていた。

 中学生の頃は天文部のない学校に通っていたため、俺たちは部活にも所属せず、ふたりきりで帰宅天文部活動をしていた。夏休みになると、部活合宿と称して、近くの山に一台の望遠鏡を担いで、大袈裟な荷物を背負って、テントを張って、キャンプしたりもしていた。

 夏祭りの日も俺たちだけ、花火を見ることもなく、宇宙に思いを馳せていた。だから空と一緒に花火を見た記憶はない。小さいの頃は親たちと一緒に見たことはあったけれど、俺は花火よりやっぱり天体を見ることが好きだった。花火なんてその気になればいつだって上げることができるものだし、生きてる間に一度見れるか見れないかの流星群や、ほうき星を求めた方が、はるかに意義があると思っていた。

 だから高校は絶対、天文部のある高校に一緒に行こうと約束していた。街一番の進学校の屋上には天体観測ドームが見えた。あの高校に通えばきっと、正式に天文部として活動できる。空も勉強はできる方だったから、きっと二人揃ってあの高校に通えると信じて、天体観測の合間に昼間はちゃんと二人で受験勉強もしていた。

 そしてその高校に無事二人揃って進学することができた。廊下の壁に貼り出されていた部活紹介ポスターの中から天文部の文字を探した…。なぜかない。屋上に観測ドームはたしかにあるのに。俺たちは焦った。受験の合格発表よりも緊張感が走った。
「宙、天文部なくない?」
「いや、あるはずだろ。」
俺たちは受験合格番号を探すかのように、天文部の文字を探した。
「あった!天文…班?」
天文部ではなく、小さく天文班と書かれた一番地味なポスターをようやく発見した。
「総合文化部?華道班、文芸班、天文班…。」
部活説明を読むと、あまりにも人気のない部活はそれぞれ班と呼び、まとめて総合文化部とし、細々なんとか成立しているらしい。
「天文部はないんだ…。残念。」
「でもほら、俺たちががんばって、部員増やせば、天文班から天文部に昇格するかもしれないし。」
「そうだね、とにかく班でも何でも、あって良かった。」
空にやっと笑顔が戻った。周囲からは暗いと言われる奴だけど、俺の前では時々笑顔を見せてくれる。俺だけに見せてくれる笑顔がなんだか愛おしかった。

 部員を増やすどころか、一年生の頃、三年生としてたったひとりで活動していた天文班の先輩が卒業すると、天文班の部員は俺たち二人だけになってしまった。そもそも進学校のためか、あまり部活には力を入れていないような学校で、部活に所属しない生徒も珍しくなかった。部員が増えないことは寂しいようで、でもなんとなくうれしくも感じていた。空とふたりだけで自由に活動していた中学生の頃の帰宅天文部の延長みたいなもので、幼馴染同士気を遣うこともなく、天体観測に明け暮れることができたから。

 二人きりの天文班で呑気に活動していた二年生の夏、秋に控えている文化祭に向けて、いつもは帰宅部のような総合文化部が活発に動き出した。文芸班の人数が足りず、作ろうとしている詩集に掲載する詩が間に合わないと困っていた。そんな時、空に声が掛かった。実は空は一年生の頃、授業で提出した詩がコンクールに出品され、入賞していたのだ。当時から文芸班に来てくれないかとオファーもされていた。でももちろん空は断っていた。文芸班に入る気なんて、さらさらない。今回の文化祭で発表する詩集だけでいいから、協力してほしいと文芸班の班長から懇願され、同じ総合文化部の部員として仕方なく、空は詩を寄稿することにした。
「面倒なこと頼まれちゃったな。あの時は授業だから仕方なく、書いた詩だったのに…。」
なんてぶつぶつ言いながらも、空は真面目に取り組んでいた。
「空の詩、俺は好きだよ。空、詩書く才能あるんだよ、きっと。宇宙のこと書けばいいじゃん。星のことなら、いくらでも書けるだろ?」
そんな風に俺も空の背中を押した。その後、俺は後悔した。あの時、空を文芸班に借り出させることさえしなければ、彼女と親しくなることはなかったのだから。
 華道班で活動していた彼女、波木光もまた、文芸班に借り出されることになった。澄んだ瞳が美しくして、彼女に憧れている男子は多いと聞いたことがある。俺は興味なんてなかったけれど、たしかに美人だとは思っていた。総合文化部ってどこの班も本当にギリギリでやっていて、どうやら幽霊部員も多いらしく、ちゃんと活動している部員は一学年につき、片手で十分数えられる程度で、華道班も文芸班もそれぞれ天文班と似たり寄ったりだった。波木さんも空同様、授業で書いた詩がコンクールで入賞し、文芸班に目を付けられていたらしい。空と同じく、文化祭のために寄稿するだけの約束で文芸班に協力することになった。つまり、空と波木さんは二つの班を掛け持ちすることになった。そもそも同じ総合文化部だから、何ら支障はない気もするけれど、それぞれ活動している場所が違ったため、どうしても本命班を抜け出さないといけない時期があった。特に、文化祭を目前に控え、手作業で詩集を作る時期に入ると、空も波木さんも文芸班にいる時間が増えた。

 俺はひとりで屋上の天体観測ドームで空を見上げていた。いつも二人きりだし、別に一人減ったところで、そんなに変わらないはずなのに、狭いはずのドームがいつもより広く感じて、寂しさを覚えた。空という一人の人間がいないだけで、広い宇宙に一人取り残された気がした。その時、空と一緒にいられる時間がかけがえのないものだったと初めて気付いた。それまであまりにも一緒にいることが当たり前になっていたから、空がいなくなることなんて、考えもしなかった。今は同じ高校に通えているから、一緒にいられるけれど、同じ大学に通えるとは限らないし、空と同じ時間を共有できるのって実はあとわずかしか残っていないんじゃないかと考え出すと、どうしようもなく、寂しくなってしまった。寂しいという感情を覚えたのは、この時が初めてだった気がする。いつでも隣に空がいてくれたから、俺は寂しさを知らないまま、十七歳まで生きることができていた。なんて幸せな十七年間だっただろう。なんて愚かな人生だっただろう。寂しさも知らなかったなんて。俺はそんなことを考えながら、うわの空で望遠鏡を覗き込んでいた。

 文化祭が終わった秋の暮れ、夕方五時のチャイムを聞きながら、空と二人で帰り道を歩いていた。沈みかけた夕日で俺たちの影が長く伸びていた。
「空の詩が一番良かったよ。見えないものを…のくだりとか。空の天体観測が詩集の中で一番輝いてた。」
「そう?ありがとう。でも僕は波木さんの詩の方がすごいと思った。」
近頃、空の口からやたらと波木さんが登場する。それがなんとなく、不愉快だったし、寂しさを感じた。
「透明なほうき星がどうとか…ちゃんと寂しくなれたから、寂しくないとか。」
「たしかに波木さんの詩もすごいと思ったけど、やっぱり空の詩には敵わないよ。」
実は俺も波木さんの詩にはうかつにも共感してしまったし、感動させられたけれど、俺は波木さんより空の方が昔からの友達だし、大好きだし、波木さんの方が上なんて認めるわけにはいかなかった。
「波木さん、華道班だから、時々うちの花を買ってくれてたんだ。あまり話したことなかったけど、話してみたら、気が合うかもって思った。だから、きっと宙とも仲良くなれると思うんだ。今度、三人で遊ばない?」
空から誰か他の人の名前が出たのは、この時が初めてだったと思う。自惚れるわけじゃないけど、空は俺以外の人間には興味がないと思っていたし、俺という趣味も気が合う親友がいれば、他の友達を必要とすることはないと思っていた。それは俺もその通りで、空がいるから、他の友達を積極的に作ろうともしなかったし、必要としていなかったのに。

 なんとなく文化祭以来、空が変わってしまった気がして、俺の知っている空がどんどん遠くに行ってしまうようで、心細くなった。こんな気持ちになるのも初めてだった。何かと言い訳して、波木さんと空と三人で会って遊ぶことはしなかった。三人で一緒に過ごす自信がなかったから。別に女子に免疫がないとかではなく、むしろ女子とは普通に話せるし、イケメンだとか俺の見かけだけで近寄って来る女子は相変わらずいたけれど、空と親しくなってしまった波木さんだけは例外で、苦手な部類だった。子ども染みているけれど、空を波木さんに取られてしまった気がして。空と俺には二人だけの時間があって、二人だけの場所があって、二人だけで覗ける望遠鏡を共有していたから、そこに割り込まれた気がして、波木さんだけは快く受け入れることができなかった。高校生になっても相変わらず空は暗いと言われ、モテる部類ではなく、むしろ避けられるようなタイプの人間で、誰も空の良さには気付かず、誰も寄りつかないから安心していたのに、波木さんは空の良さを認めた初めての女子だと思う。空に女の子の影がちらつく日が来るなんて、考えたこともなかったし、考えたくもなかった。まるである意味、空の親みたいな心境だ。

 そんな俺の気持ちを察したのか、何回か三人で遊ぼうと誘ってきた空だけれど、その後は俺を誘うことはなくなった。代わりに、二人だけで過ごす時間は少しずつ減って、波木さんと空が二人で過ごす時間が少しずつ増えた。そんな時は悔しいけれど波木さんが作った詩に励まされてしまった。空がいないって寂しく感じるのは空がずっと側にいてくれて幸せだった証なんだよな…なんて考え出すと、どうしようもなくなって、俺もまた空以外の人間と遊ぶようになっていた。別に空がいなくても、いくらでも一緒にいてくれる友達は簡単に作れるし、望まなくても女子も勝手に寄って来るし、寂しくなんてない。けれどそういう人たちが増えれば増えるほど、一緒にいればいるほど寂しいと感じるこの気持ちは何なんだろう…。他の人たちがたくさん取り囲んでくれて、空ひとりだけがいない俺の時間は空っぽだった。

 三年生になり、文化祭をもって部活を引退することになった。なんとなく空とはぎこちない関係になってしまっていたとはいえ、ちゃんと天文班の活動は一緒にしていたし、親友なのは変わらないと思っていた。
 秋の文化祭を控えた夏休み、その年は天文ショーの当たり年で、近年稀に見る大きな彗星が地球に大接近していた。特に、最接近する日は天文班として見逃すわけにはいかない。一大イベントの日だった。
「八月十五日、楽しみだなー。」
「早く、来年の八月にならないかな。」
去年まで確かにこんな会話を空と二人で繰り広げていたはずなのに、直前になって、空が、
「ごめん、最接近の日は観測できない。」
と言い出したから、驚いて、一瞬声が出なかった。
「何でだよ、この最接近を逃したら、次回は二千年後なんだぜ?二度と見られないのに、何で…。」
「ごめん、波木さんと花火に行く約束してしまったから…。」
空が申し訳なさそうに呟いた。
「は?花火?花火なんていつでも見られるだろ?どっか他の街を探せばまだ夏の花火なんて残ってるだろうし、来年だってあるし。彗星は、今年逃したら、もう二度と見れないんだぜ。」
俺は思わず語気を強めてしまった。
「ごめん、今年の花火は特別なんだ…。ほんとに、ごめん。彗星はさ、最接近じゃないけど、次の日も、しばらくは見られるし。」
この時の俺は子どもで、空が波木さんと付き合い始めて、彼女と夏の思い出を作りたいがために彗星より花火を優先したんだと勘違いしてしまった。
「最接近日と翌日とでは見え方が違うだろ。何年も一緒に宇宙見て来たから、それくらい分かってるだろ…。」
「分かってるけど、でも今年は彗星より花火なんだ。ごめん。」
俺が何と言おうと、空の考えは変わらなかった。

 その日、天気予報士は「お盆に入って、真夏のピークは去りました。残暑は厳しくなく、過ごしやすくなるでしょう。」なんて朝つけたテレビで言っていた。
 真夏のピークは去ったのか…そっか、何でもピークってあるんだよな。きっと空と俺の友情のピークはもうとっくに過ぎ去っていて、いつまでも空ひとりにしがみついて、依存して、空には俺がいないとダメだなんて思い込んでいたのは自分だけで、空にとって俺はとっくに不要な人間になっていたんだな…。なんて考え出すと、胸が締め付けられて、俺は気付くとあてもなく外に飛び出していた。
 連絡すれば今すぐ駆けつけてくれる友達という名の人たちはいくらでもいた。お祭り一緒に行かない?なんて女子から何件もメールが入っていた。俺はそんな誘いに応じる余裕さえ失くしていた。祭り会場になんて行ったら、空と波木さんとばったり遭遇してしまう可能性だってある。二人が仲睦まじく、同じ時間を過ごしている光景なんて見たくない。祭りのお囃子も、賑わいも、聞きたくなかった。

 電車に飛び乗って、祭りで賑わう街から逃げ出した。行き先なんて決まっていなかった。どこだって良かった。祭りの喧騒が聞こえない場所なら、どこだって。なのに偶然、降りた駅の間近に花屋があって、思わず空の家の花屋を思い出してしまった。公園を通りか掛かると、二人の小さな男の子たちが楽しそうに遊んでいた。まるで出会ったばかりの頃の空と俺みたいだと思った。空のことを忘れるために、知らない街をふらついているというのに、どういうわけか空のことばかり思い出してしまう。今頃、祭り会場で波木さんと一緒に楽しく過ごしているのかなとか、想像してしまう。

 知らぬ街を何時間も彷徨っていると、ふと聞き覚えのないメロディのチャイムが鳴った。時刻は五時をさしていた。その時、俺は幾度となく空と一緒に歩いた帰り道を思い出して、空のことを忘れられない運命みたいなものを覚えた。空に俺が必要ない存在だとしても、俺には空が必要で、忘れようとしても忘れられない。まいったな。いつの間にか俺は天体よりもきっと空のことを追い求めていたんだ。たしかに宇宙は好きだけど、たぶんきっと星じゃなくても、空と一緒に夢中になれる何かがほしかったんだと思う。空と二人だけで夢中になれるものなら、宇宙じゃなくても何でも良かったんだ。二人で時間を共有できるものがたまたま天体だっただけで。空は今、波木さんと一緒にいるかもしれない。でもたぶん今夜大接近する彗星のことも完全に忘れたわけではないだろう。空が波木さんと付き合っていても、宇宙が嫌いになったわけでもなく、完全に興味を失ったわけでもないだろう。じゃあ、空の分まで、俺がこの目で彗星を見て、明日、空に話して聞かせようと思った。空には一番星が輝き始めていた。

 慌てて俺は電車に乗って、空のいる街へ戻った。彗星が観測しやすそうな小高い丘を知っている。街灯の明かりがポツポツ点灯しているだけの薄暗く寂し気な路地を息を切らしながら、駆けた。真夏のピークは過ぎたとは言え、まだ空気は生温かった。丘のてっぺんに辿り着いた時、ドーンドーンと花火の音が聞こえ始めた。それと同時に花火と逆の空にぼんやり白い尾を引いた彗星が見え始めた。望遠鏡を使わなくても、肉眼ではっきり見えるレベルの大きな彗星。本当なら、あの望遠鏡でじっくり観測したかったけれど、あいにく望遠鏡は家に置き去りにしてしまった。でも見えない細部まで見える気がした。祭りの花火が終わって、街に静寂が戻った頃、家に戻って、留守番させている望遠鏡を使って、じっくりまた観測すればいい。空の言う通り、彗星は明日だって見られるんだから。最接近しているのは今かもしれないけれど、消えてなくなるわけではないから。もっと言えば、彗星が地球に接近しているのがたまたま今というだけで、何千年も何万年も、広い宇宙の暗闇の中、微かな光を放ちながら、動き、生き続けているんだ。見えなくなると、星自体が死んでしまったようにその存在を寄る辺ない存在として人間は寂しさや悲しみを覚えてしまうけれど、人間の手なんて届くはずのない宇宙のどこかでずっとこの彗星は動き続けているんだ。いつの間にか消失してしまうまで、一生懸命暗闇を照らす光を放ち続けるんだ。

 空と俺もきっと、地球と彗星みたいなもので、たまたま出会えて、十二年間ほど一緒にいることができた。この気まずい関係を修正できたとしても、これから先、今までと同じくらいの時間、例えば十二年先もずっと一緒にいることはできないだろう。それぞれ違った軌道で生きているのだから。出会った時に別れも一緒に引き連れてきて、出会えた幸せと同時に別れの悲しみも教えてくれる星の下で、僕らは奇跡的に生まれて、奇跡的に生きているんだ。俺はもう寂しくなんてなかった。空のことを感じて、ちゃんと寂しくなって、ちゃんと泣くことができたから。溢れ出した涙で、彗星がますますぼんやり滲んで見えた。

 約束したわけではないけれど、もしかしたら、花火が終わった後に空がこの丘の上に来てくれるかもしれないという一抹の淡い期待もあり、待ってみたけれど、結局空が現れることはなかった。すっかり静けさを取り戻し、ゴミで散らかった祭りの後の帰り道、彗星を眺めながらとぼとぼ歩き、ようやく家に戻った。この置き場の見つからない、感傷的な気分は祭りの後のゴミたちと同じだと思うとなんだか少し笑えた。

 それから何事もなかったように…とはいかないものの、翌日はいつも通り空と話しをして、彗星を一緒に眺めることができた。空は相変わらず波木さんとも仲が良い。俺も他の友達と過ごす時間が増えて、文化祭が終わると同時に部活も引退し、空と一緒に過ごす時間はますます減っていった。空はこの街から通える近場の大学に、俺はこの街から遠い大学に進学することになった。あえて遠い大学を選んだというのもある。たまにしか帰って来られないように、空のことを意識しなくて済むように。
 そして気付けば疎遠になっていた。幼馴染で親友でも、同じ時間を過ごせなくなれば、変わらない関係を続けることはやはり難しかった。まれに連絡を取り合っていたけれど、十二年過ぎた頃には結局、音信不通になっていた。時々空と過ごしたこの街に帰省しても、会うことはなかったし、空の家の花屋もいつの間にか店じまいし、風音家はどこかに引っ越してしまった様子だった。

後編に続く★

画像1

#天体観測 #若者のすべて #バンプオブチキン #フジファブリック #藤原基央 #志村正彦 #夏祭り #花火 #彗星 #プラネタリウム #天文部 #宇宙 #望遠鏡 #ray #オマージュ小説 #カバー物語


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?