見出し画像

虹の反対側で存在感を放つ人間HYDE〈2〉

大学生になると、自由度も増したため、本格的にHYDEにのめり込んだ。ソロ第一弾シングル「evergreen」は私にとっておそらく人生で一番多くヘビロテした楽曲になったと思う。それくらい大好きで、葬儀の時、流してもらいたい曲だ。なんて繊細で美しくて、儚くてせつなくて心が安らぐ曲だろうと改めてHYDEの感性に心惹かれた。昔聞いたクラシックに匹敵するくらい、後世にずっと残ってほしい名曲だと思った。クラシックと変わらない、これは美しいクラシック音楽だとさえ思った。とても静かなのに、強く心に響く。エバグリも収録されているアルバム『ROENTOGEN』はクラシックのような静かな曲ばかり収録された確かな名盤となった。

ソロがひと段落すると、ラルクの活動が活発になり、ラルクの楽曲もリリースされ、ツアーも組まれた。両方で活躍するハイドはとても忙しいだろうけど、追い駆けるファンの方も慌ただしい時期だった。LE-CIELというラルクのファンクラブに入会した。学校で知り合ったラルクファンの同級生と一緒にラルクのライブへ行ったり、ラルク縛りのカラオケをしたり、学校の売店で音楽誌を買い漁ったりと、充実した音楽ライフを送っていた。HYDEファンにならなければ、音楽誌なんて一生買わなかったかもしれない。今は休刊となってしまっている雑誌も多いけれど、当時はまだ音楽誌が多く発行されていた時代で、お金が追いつかないくらい、買い集めていた。何しろ、読む用と保存用など、同じ雑誌を複数買っていたりもしたため、置く場所にも困るようになっていた。当時集めた雑誌は本棚に収まりきれず、いまだに段ボールに保存している。HYDEの記事はちゃんと読んだし、その頃、レビューを書くことも覚えた。CDがリリースされる度に促進販売グッズ(非売品)がプレゼントされることも多かったため、ハガキにびっしり感想を書いて、プレゼントをゲットしていた。今考えてみると、音楽誌を買い集めた行為はこういう風にアーティストに関して何かを書くという原点になったから、それがHYDEを好きになって得たものその1である。そして好きが高じて、学校で主催した一般公募の童話賞において、初めて童話を書くこともできた。テーマはクリスマスだったため、「Angel’s tale」を聞いて、イメージした世界を物語にした。時間はかかったけれど、書き上げることができた。入選して、発行された本に収録してもらった。HYDEを好きになって得たものその2が物語を書く力だ。言ってしまえば、卒論を書く時だって、HYDEの言葉を参考にした。ちょうど『下弦の月』という映画に主演していた時期であり、死生観を語るインタビュー記事が多かった。それを読んで、死生観をテーマにしていた卒論にHYDEの言葉を引用させてもらった。就活の時は、ラルクSMILEツアーのグッズだった缶コーヒーを飲みながら、慣れないスーツを着て、少しだけ奮闘したし、今振り返ると、大学生活は常にHYDEと共にあった。HYDEのおかげで、同じファンの友達もできたし、レビューや物語を書くことも覚えたし、卒論も仕上がって、無事卒業することができた。HYDEのおかげで、充実したキャンパスライフを送り、卒業できたと言っても過言ではない。

就職氷河期時代、思う様には就職できなかった。アルバイトのような仕事をしつつ、HYDEのファンクラブHYDEISTにどっぷり浸かるようになっていた。

同じ頃、幼少期からずっと親しかった友人と気まずくなってしまっていた。それからもうひとり、ちょっと好きだった人との別れも経験した。別に付き合っていたわけでもないから、たいしたことじゃないけど、大学生の頃、CDショップに貼られていたバンドメンバー募集のチラシを見て、連絡し、同じラルクファンということで知り合っていた。私はピアノを習っていたため、キーボードを担当できたらと考えた。でも実際はバンド活動したわけでもなく、一緒に映画に行ったり、海に行ったりした。彼はスナフキンのように何かを悟っていて、ひょうひょうとしている旅人だった。HYDEに負けないくらいかっこいい容姿だった。だから憧れのような恋心を抱いた。その彼が遠くへ引っ越すことを知った。旅人体質だから、驚くことはなかったけれど、遠すぎて、会えなくなってしまった。そんな憧れの人と友人との別れが同時期に重なり、いつか離れ離れになってしまうなら、親密な人間関係を作りたくないと自分の殻に閉じこもるようになった。

友人たちとも距離を置き、必要最小限うわべだけの人間関係をもつようになった。人間不信というか、人間と関わりたくないという時期だった。なのにHYDEISTでまた人間と出会ってしまった。HYDEはチャットやゲーム、投稿ができる場をサイト上に作ってくれていた。PCは仕事のために使い始めたばかりで、ほぼ初心者だった。でも思い切って、チャットを始めてみた。タイピングもかなり遅い。当初コピペの仕方も知らなかった。他の人たちはネットの達人ばかりで、タイピングも速い。会話についていくのがやっとだったけれど、そこで友人ができた。同じHYDEファンだから、親しくなれて当然かもしれないが、明るいその人は根暗な私と比べたらまるで違う性格で、前向きで、憧れの対象となった。私はいつだって自分の違う性格の人に惹かれる。自分にない良いところを持っている人を好きになる。人間を好きになることは懲りたはずなのに、結局またそこで尊敬できる好きな人ができてしまった。(同姓のため、恋愛感情ではなく、ひとりの人間として尊敬できた。)なかなか遠い距離だけど、一緒にライブに行くために、実際に何度も会ったりした。メールも文通もした。宮城住みの私を心配して、東日本大震災の時は物資を送ってくれた。私はHYDEを好きになったおかげで、HYDEISTへ入会し、人間不信だった頃、そこで多くのファンや尊敬できる人と知り合って、いつしか人間不信を克服していた。HYDEを好きになって得たものその3は信頼できる人間関係である。その4はPCタイピング能力だ。チャットのおかげで、苦手だったタイピングもいつの間にか得意になっていた。それは今、こうして書く作業の時、かなり役立っている。

HYDEはVAMPSを結成し、全国のライブハウスZeppに数日間留まる籠城ツアーが毎年恒例となっていた。仙台に来てくれる度に何度も参戦した。その合間にファンクラブイベントも敢行してくれて、たった一度だけ握手をしてもらえたことが一生の思い出だ。まっすぐな眼差しに美しい瞳、想像していた通り、神の類だと思った。ふわっと羽のように包み込んでくれた手の温もりも忘れられない。この頃、私はまだHYDEを人間として見てはいなかった。手の届かない、私たちファンとは違う神聖な存在であり、天使か妖精か魔法使いかバンパイアか、とにかく人間離れした存在として捉えていた。しかし、ライブで何度も生身のHYDEが歌い、パフォーマンスする姿を見て、MCを聞き、HYDEの口から発せられる言葉を知るうちに、彼は神聖な存在ではなく、人間だということに気付いた。ラルクという着ぐるみを着たhydeではなく、そこには自分の好きな音楽を好きなように表現する、まるでバンドを始めたばかりで理想を追い求める少年のようなHYDEの姿があった。特にVAMPSを結成して以来、海外でもライブを行っている。ラルクとしてもワールドツアーは開催しているものの、自分の好きな音楽で、自分が良いと信じる音楽で世界と向き合う姿勢はhydeとして有名になり過ぎて、成功し過ぎたビッグアーティストが、初心に戻って、ステータスを築き直すようなものであり、わざわざ苦労を買って出るようなものだから、ファンとしてはそこまでしてやらなくてもいいのにと思う時期もあった。むしろ海外ツアーに行ってしまうと、いつか日本からいなくなってしまうようで、一抹の寂しさもあった。手の届かない存在になってしまうようで、怖かった。でも、HYDEは海外でも認められることを目標にしていても、決して日本を忘れてはいなかった。むしろ海外でインタビューを受けた時は日本の良さを発信してくれていた。海外に日本の良さを輸出し、日本には海外のライブで感じた良い部分をお土産として持ち帰ってくれた。

VAMPSを休止し、HYDEソロに戻った今年はそれが顕著だ。「ZIPANG」という趣ある日本を歌った楽曲をリリースしてくれた。海外制覇という目標を掲げていても、日本も忘れずにいてくれた。むしろ大切に想ってくれていた。古き良き時代の日本を忘れないでという今の日本に対する警告でもある楽曲だから、私たちは真摯に受け止めなければならない。

今年の夏、ソロライブで仙台に来てくれた時、MCで震災前にVAMPSの頃、訪れた海に行ってみたら、高い壁が出来ていて景観が変わっていたことを話してくれた。その海はまさに大学時代、バンドを組もうとして知り合ったラルクファンの憧れの人と一緒に訪れた海であり、その思い出深い海にHYDEが何度も足を運んでくれたことがたまらなくうれしかった。そして、震災についての話を続けて、「(震災で亡くなった人の中には)オレのファンもいたかもしれないから、これからライブしてくるよと伝えて来た」ということも語ってくれた。それは本当にあり得ることだと思う。なぜなら、震災後、私の住む街に南三陸町の仮設住宅団地が出来た頃、その団地でお盆にお祭りをしていて、カラオケが開催されており、HYDE作曲の「GLAMOROUS SKY」を力強く歌っている女の子がいたから。その歌声を聞いた時、私はその子はきっとこの曲に勇気付けられて生きているんだろうなと思った。もしかしたら、その子の知り合いに亡くなってしまった人もいるのかもしれない。その亡き人にも届きそうな歌声だと思った。被災者の中にHYDEファンがいることを知った。だから亡くなった人の中にもファンがいるだろうし、そういう人たちのことも忘れずにMCで語ってくれたことに本当に感動した。当然だけれど、HYDEはやさしい人間だった。そしてデュラン・デュランのカバーで「ORDINARY WORLD」を歌ってくれた。

HYDEのカバー力は圧巻だ。この曲に限らず、何年もの間、洋楽、邦楽問わず、様々な楽曲をカバーしてくれている。シングルのカップリングに収録されているものもあるが、そろそろカバーアルバムがほしい。何しろすべて自分のものにして、歌っているから。何を歌っても、HYDEの歌だ!と思える。そもそもバラードもハードなロックも何でも歌えてしまう声色を持っているから、表現力が巧みで、ボーカル力は生まれ持った才能みたいなものだ。その彼が歌えば、カバー曲も自分の曲になって当然だ。美しいファルセットも、歪んだ重低音のような歌声も、囁くようなやさしい歌い方も、激しいシャウトも全部、HYDEの歌声で、歌の表現の仕方に幅があるため、聞いていて飽きることがない。端麗な容姿だけで売れているわけではなく、アーティストとして武器になる天性のボーカル力がHYDEの一番の魅力だと思う。

HYDEを好きになって得たものその5はカバーしてくれたおかげで、知ることができる楽曲が増えたということが挙げられる。特に洋楽は疎いのだけれど、HYDEがカバーした曲は合わせてオリジナルも聞くようにしている。その6としては、スマホを購入できたことだ。正直、機械音痴な私はできればガラケーのままでいたかった。でも、ファンクラブ先行のHYDEライブチケットがすべて電子チケットになると告知された時、潮時だなと実感した。スマホが無ければ、ライブに行けなくなると思えば、やはりスマホを購入せざるを得なかった。まだ2年ちょっとしか経過しておらず、PCほど使いこなせていないものの、スマホに変えるきっかけをくれて良かったと感謝している。スマホのおかげで、noteなども知ることができたから。

〈1〉→https://note.mu/hironoto/n/nf950761efb60
〈3〉→https://note.mu/hironoto/n/nc3b1b1b1baf4

  #いまから推しのアーティスト語らせて #HYDE   #ラルク

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?