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高校サッカーから逃げた私が、Jクラブの番記者になるまで

2021シーズンから、サッカー新聞「エルゴラッソ」で、J3・AC長野パルセイロを担当することとなった。

高校でサッカーを引退し、大学ではフリースタイルフットボーラーとして活動。その後はサッカーライターの道を志し、インターン、フリーランス、正社員を経て、Jリーグの現場にたどり着いた。

シーズン開幕を控えた今、自己分析も兼ねて、これまでのキャリアを振り返りたいと思う。


「退部=退学」。志し半ばで寮を出る

「サッカーから逃げたい」。特殊な高校で育った私は、そう思っていた。

地元・東京の中学を卒業後、新潟の開志学園JSCに進学。慣れ親しんだ環境を離れ、寮生活をしながらサッカーに打ち込んだ。


開志学園JSCは、サッカー専門学校「JAPANサッカーカレッジ」の高等部と、Jリーグ・アルビレックス新潟のアマチュア育成組織に当たる。サッカー中心のカリキュラムが組まれており、ほぼ毎日、午前・午後の2部練習をこなす。

歴代の最高成績は、全国ベスト16。卒業生にJリーガーはいないものの、県大会では毎年上位に入っている。また、アルビレックス新潟ユースの選手とともに衣食住をしており、同世代のトップレベルの選手とコミュニケーションが図れる。


私は小・中学校での大した実績もなく、レベルでは劣っていた。唯一、リフティングの技術では周囲に勝っていたが、トップチームに入った経験は一度もなかった。

2年の冬には、全治3〜4カ月の重傷を負う。復帰後はCチームからスタートしたが、3年での高校サッカーや国体のメンバー入りは、すでに諦めていた。モチベーションが上がらず、次第に「サッカーを辞めたい」と思うようになった。

ただし、学校のカリキュラムにはサッカーが含まれている。サッカーを辞めるとなると、高校も退学せざるを得ない。それでも気持ちは変わらず、コーチや両親と相談した上で、退学を決意。最終学年への進級を待たずに、地元へと戻った。


「サッカー ライター 募集」と毎日検索した結果

その後は、通信制高校を経て、地元の大学に進学。大学では、中学から始めたフリースタイルフットボールに力を入れた。最高成績は関東ベスト4だったが、世界から高く評価され、サッカーよりも「成功した」という感覚はある。

2年になると、就職活動を視野に入れ始めた。とはいえ、具体的な夢や目標があるわけではなく、フリースタイルフットボールで食っていける保証もない。唯一あるのは、「どうせやるなら、サッカーの仕事が良い」という漠然としたビジョンだった。


小学時代から、サッカーはやるだけでなく、観るのも好きだった。東京都小平市に生まれ、FC東京の練習場(小平グランド)や、味の素スタジアムでの観戦経験は数知れず。大学でも、それは変わらなかった。

それならば、その「経験」を「仕事」にできないか、と。ただ観るだけで満足するのではなく、伝えることによって、何かを変えられるかもしれない。フリースタイルフットボールを休止し、サッカーライターの道を志すことにした。


その後は、大学の「学生記者」というアルバイトや、サッカーキングが開催していた「サッカージャーナリスト養成講座」の受講など、次々とアクションを起こした。また、Twitterで「サッカー ライター 募集」と毎日検索し、現場取材の機会を模索した。

そしてある日、サッカーライター・竹中玲央奈さんのツイートにたどり着いた。「スタートアップ企業で働きながら、サッカー(スポーツ)ライターを目指すインターン」を募集していた。

私はすぐにDMを送り、履歴書や課題文を提出。対面での面接も通過し、株式会社Link Sportsのインターン第1号となった。


インターンの延長線上から脱却できず

Link Sportsは当時、創業3年目に差しかかるタイミングだった。「Q&A Sports Interview(現在はAZrena)」というメディアを抱え、選手や業界関係者のインタビューやコラムを配信。その価値をブーストすべく、企画や取材、執筆、編集など、多岐にわたる業務に携わった。

特に印象的だったのは、Q&A Sports InterviewからAZrenaへの移行。新規メディアの立ち上げに携われたことは、今でも大きな財産となっている。

また、数々の失敗もした。会社の備品であるカメラを、電車に置き忘れてしまうこともあった(詳しくは下記のnoteにて)。今でこそ笑い話にできるが、当時は「サッカーライター人生もここで終わりか…」と悲観していた。

大学卒業後は、フリーランスとして活動を継続。様々なメディアでライティング・編集を行なってきたが、「Jリーグの現場に行きたい」という思いは常にあった。

玲央奈さんは、エルゴラッソやサッカーダイジェストなどで執筆を担当。Jリーグから育成年代まで、幅広い領域をカバーしている。その背中を見て育ったこともあって、なおさらJリーグに対する気持ちが強かった。

とはいえ、能力的には不十分だったと思う。ここで言う能力とは、ライティングスキルだけでなく、行動力やスピード感、ビジネスマナーなど、総合的なスキル。インターンの延長線上から脱却できていなかった。


環境を生かすも殺すも自分次第

変化が生まれたのは、フリーランス4年目(2020年)だった。コロナ禍で仕事や収入が激減し、軌道修正。プログラミングスクールに3カ月通い、その後にITエンジニアとして就職した。

しかし、それも長くは続かなかった。スクールの7月生の中で、最速で就職を決めたが、わずか2週間で退職。ITエンジニアとして先が見えなかったことと、サッカーライターへの未練が残っていたからだ(「2週間で何が分かるの?」という批判はごもっとも)。


退職後は、すぐに元の道へ戻った。「やりたいこと」と「やるべきこと」がはっきりしたので、あとは努力を重ねるのみ。すべての能力を引き上げるために、業務外でのインプットやアウトプットも増やした(特に読書量が増えた)。

この努力は、至極当然のことだと思う。ただ、以前は「当たり前のこと」すらできていなかった。転職の経験が、自分に足りなかったものを気づかせてくれたと思う(会社の方には、申し訳ない気持ちでいっぱいだが……)。


また、環境にも恵まれていた。玲央奈さんはもちろん、実績豊富な澤山モッツァレラさんにも揉まれるなど、この上ない成長の場。ジムで言えば、ゴールドジムではないだろうか。

それを生かすも殺すも自分次第。環境のありがたさに気づき、愚直に努力を重ねることで、少しずつアップデートできた。

バージョン2.0から3.0への急上昇が難しければ、まずは2.1や2.0.1でも良い。ただし、現状維持やグレードダウンはアウト。「前しか向かねえ」というAKB48の楽曲があるが、この記事を書きながら、サビが脳内再生されている。


長野は、隠れた「スポーツ大国」

「出戻り」から約3カ月。ご縁があって、2021シーズンから、エルゴラッソでAC長野パルセイロを担当することとなった。高校時代の新潟に続き、奇しくも同じ甲信越地方へ。紆余曲折はあったものの、Jリーグの現場にたどり着くことができた。

高校在学時、パルセイロは、JAPANサッカーカレッジと同じ北信越1部リーグに所属していた。新潟で現地観戦した際には、地域リーグで、しかもアウェイにも関わらず、多くのファン・サポーターが足を運んでいた。その熱い応援を、今でも鮮明に覚えている。


正直に言うと長野の印象は、パルセイロと松本山雅FC、そして蕎麦くらいしかなかった。しかし、リサーチしてみると、サッカー以外のスポーツも盛んなことが分かる。Vリーグ、Bリーグ、Fリーグ、BCリーグ……。もちろんウインタースポーツもある。

長野のスポーツ市場は予想以上に大きい。繰り返しになるが、環境を生かすも殺すも自分次第。まずは、パルセイロの一次情報を発信し続けるとともに、クラブ史上初のJ2昇格を見届けたい。そして、サッカーにとどまらない長野のスポーツシーンの魅力を、県内外に届けたい。


開幕は3月14日(日)、アウェイでカマタマーレ讃岐戦。ホーム開幕は3月21日(日)、テゲバジャーロ宮崎戦。コロナ禍で様々な制限はあるものの、Uスタ(長野Uスタジアム)に足を運ぶのが楽しみで仕方ない。


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