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ショートショート:残り香

冬。
30歳になった私は、休日に夫と衣替えをしていた。
着れるものは取っておく、着れないものは燃えるゴミ袋に放り込む。
そんな作業を繰り返してそろそろ2時間が経っただろうか。
「ふぅ、それにしてもすごい数の服だな」
「ごめんね、ほとんど私の服なのに手伝ってもらちゃって」
「いいんだよ。どうせ休みなんだし。はい、これ最後の段ボールね」
うんと言って受け取った段ボールには、どこか懐かしさを感じた。
「この段ボール、いつのだったかしら」
私は少し緊張しながらその段ボールを開けると、直ぐに懐かしさの正体に気づいた。
「これって…」



冬はすぐに夜がやってくる。
定時で仕事を終えて窓の外へ目をやると、まだ17時だというのにすっかり太陽は沈んでいた。
外へ出ると、目の前の大通りにはダーク系のコートを着たサラリーマンやOLが一刻も早くと言わんばかりに早足で帰路へ着いていた。
クリスマスを過ぎた12月28日。
つい3日前までの明るいクリスマスームドは何処へやら、歩道脇には街灯が足元を薄暗く照らし、いつもの日常に引き戻された様な感覚を覚えた。


私の家は職場から徒歩で約10分の所にある。
かなり近い。
しかし、雪が降る今日に限って手袋を忘れた私にとっては非常に長く感じられた。
わずかに温かさを含んだ息を冷気で冷める前に両手で包み込み、手を揉む様にして寒さを凌いだ。
しんしんと降る雪はとても綺麗だが、そんな事を楽しむ余裕は今の私にはなかった。
道端に積もる雪をブーツで踏むたびにザクザクと音がする。
私は転ばぬ様に気を付けつつ、出来るだけ早く家に帰れるスピードを保って歩いた。

手が赤く悴んできた頃、ようやく私の住むマンションに着いた。
私は震える手で鍵を取り出し、オートロックを解除する。
コツコツとブーツを鳴らしながら3階まで上がり、部屋の鍵を開けようとすると震える手が邪魔をする。
鍵につけている小さな鈴も手の震えに合わせてチリンチリンと音が鳴る。
すると、ガチャリという音と共に扉の方から開いてくれた。
「おかえり。寒かったでしょ? ほら、早く中に入りな」
同棲中の秀太が笑顔で手招く。
私は彼が神様に見えた。
「鍵開けてくれてありがとう〜!」
「玄関前で鈴の音が聞こえたからね」
鍵を落とした時にすぐ気づける様に付けた鈴だったが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
鈴をつけた時の私よ、グッジョブだ。


体が冷え切っていた私は直ぐさま風呂場へ直行した。
しかし、この時の私は冬場の風呂には危険が潜んでいる事を忘れていた。
ひとまず悴んだ手を温めようと40℃に設定したシャワーをかけた。
「あっっつ!」
手との温度差で異常に熱く感じた私は直ぐに蛇口を捻り直した。
それからは慎重に足元から体を慣らしてゆき、最後には湯船に浸かり、ようやく全身を温める事に成功した。


風呂から上がると秀太がパソコンをカタカタと叩いている。
リモートワーク主体の秀太は、基本的に家で仕事を行っている。
「今からご飯作ろうと思うんだけど、何時くらいに終わりそう?」
「もう終わるよ。だから亜美が料理してくれてるうちに風呂入ってくるわ」
「オッケーイ」
その返事を合図に私は料理へ取り掛かった。
秀太はもう終わると言った通り、直ぐにパソコンを閉じて風呂場に向かった。


「よし、出来たっと」
寒い冬にはやはり鍋が1番だ。
決して料理が得意じゃない事を誤魔化せるからではない。決して。
それにしても秀太がなかなか風呂から上がってこない。
風呂から上がる時間を逆算して作ったつもりなのだが、一向に上がってくる気配がない。
心配になった私が風呂場へ行くと、中から体を洗うでも頭を洗うでもなく、ジャブジャブと何かを洗う音が聞こえて来る。
「大丈夫? 何してるの?」
「大丈夫。もう終わったから」
そう言うとガラリとドアが開き、秀太は何かを持って浴室から出てきた。
「え、それって」
秀太が持っていたのはクリスマスにプレゼントしてくれた白いセーターだった。
「この前これ着て出かけたでしょ? セーターは手洗いのほうが長持ちするから、風呂に入るついでに洗っといた。勝手に俺の好きな柔軟剤を使ったけど大丈夫?」


秀太は香り物が大好きだ。
香水はもちろん、部屋に置くディフューザーや、それこそ柔軟剤にもこだわりがある。秀太はその日の気分によって数種類の柔軟剤を使い分ける習慣がある。
だから同棲はしているが、この家はどちらかと言うと秀太好みの香りになっている。
ただ、こだわりがあるだけあって秀太の選ぶ物は良い香りのものが多い。
だから私も秀太の選ぶもの、言い換えれば秀太の香りが大好きだ


「全然大丈夫だよ! むしろわざわざありがとう! 自分でするつもりで置いてたんだけど」
「水仕事は手が荒れるから俺に任せてよ。この季節は特に。代わりに料理と掃除はやってもらってるわけだし」
1年前、私達はお互いが24歳の時に同棲を始めた。
共働きの私達は家事を分担しようと話し合った。
その際、秀太は洗い物や洗濯など、理由も言わずに水仕事をやると言ってくれた。
元々水仕事が苦手だった私にとってその申し出はありがたかったが、今その理由を知って私は秀太に惚れ直した。
「顔赤いけど、どうした?」
「う、ううん、何でもない! ほら、ご飯出来てるから温かいうちに食べよ!」


温かい鍋をつつきながら、私は先ほどの秀太の言葉を脳内でずっとリピートしていた。


「水仕事は手が荒れるから俺に任せてよ。」

愛情を感じた。
私の事を大事にしてくれているのだと実感した。
改めて思い返してみると、過去にもそんなシーンはいくつもあった。
デート中、いつも車道側を歩いてくれる。
荷物は重さに関係なく持ってくれる。
女子力のない私に代わって、外出時は常にハンカチとティッシュを持参してくれる。
さっきだってそう、リモートなのにも関わらず、寒がりな私の為にお風呂まで沸かしてくれている。
秀太はいつも私に優しさを注いでくれている。
そんな想いで胸がいっぱいになったからか、鍋が温かいからか、私の体はポカポカと火照ってきた。
「ねぇ、キスしてもいい?」
「今?! 飯食ってるのに?」
「今がいいの!」
そう言って、私はテーブルの反対側へ移動し、困り顔の秀太の頬に優しくキスをした。


そうして夜も深まった頃、秀太は眠いと言って布団へ入った。
ご機嫌な私も合わせて布団に入ったが、夕食中から秀太の事を考え続けていた私はなかなか寝付けずにいた。


秀太との出会いは共通の友人である咲を介しての紹介だった。
咲があまりにも彼氏ができない私を心配して紹介すると言ってくれたのは嬉しかったが、恋愛経験皆無の私にとって、友人の紹介で付き合う事はかなりハードルが高かった。
しかし、初めて秀太と会った瞬間、私は一目惚れした。
スラッとした美しい脚にモデルの様な小顔。
パーマかと思うほど綺麗にクセのかかった前髪は、優しい瞳を少し隠す様にして伸びていた。
喋り口調も穏やかで、まさに私の理想像だったのだ。
秀太とはその日から連絡を取り合う様になり、今ではこうして彼氏として私の隣にいてくれる。
咲には彼女が好きな焼酎の一升瓶を3本まとめて送っておいた。


初めての彼氏がこんな理想的な事ってあるのだろうか。
あまりに幸せな私は自分の運を全て使い切ったのではないかと不安になるほどだった。
しかし、隣を見れば秀太がいる。
すーすーと寝息を立てながら少し丸くなって眠っている秀太。
私ははみ出た足に布団をかけながら寝顔をじっと見つめる。
「綺麗だな〜」
上向きに生え揃った長いまつ毛が色気を感じさせる。
反対に少しすぼんだ口元は赤ちゃんの様で可愛くもある。
そうしているうちに私の瞼は徐々に重みを持ち始め、ゆっくりとゆっくりと眠りへ落ちていった。


そんな幸せな日々を送っていたが、初恋は実らないとはよく言ったものだ。
付き合って3年目の秋。
それは本当に急だった。


「ごめん、別れてほしい」
「え?」
突然の事で理解が追いつかなかった私。
秀太がふざけているのかと思い、何言ってるのと一瞬笑ってしまった。
しかし、その表情は真剣そのものだった。
「どうして! 私達もう3年以上付き合ってるんだよ? 何か私に不満があるの? あるなら言って、直すから!」
「そう言う問題じゃないんだ!」
この時が初めてだった。
秀太が私に対して大きい声を出したのは。
「じゃあ、どうして急に」
「親父が事故に遭った」
「え?」
「幸い命は助かったけど、半身不随になって、とてもじゃないけど働ける状態じゃないらしい。うちのお袋は専業主婦だし、これからは俺が親の面倒を見なきゃいけないんだ」
「それなら尚更一緒にいようよ! 私も絶対助けになるから!」
「だめだ! だめなんだ」
「……どうして?」
「俺は、亜美が好きだ」
「私もだよ!」
「だから! 俺の生活に巻き込みたくないんだ! 俺と別れてもっといい人を見つけて、幸せになってほしいんだ!」
秀太は私の言葉を遮るように言った。
その後も私は秀太を説得しようと試みた。
しかし、親の介護をする男と結婚しても辛い思いをする事が多いだろうからと、私の提案を受け入れようとはしなかった。
秀太は優しい男だ。
きつい事、辛い事を1人で抱え込もうとする。
だからこそ、私が側にいてあげたかった。
しかし、1週間粘った末、ついにそれは叶わないのだと悟った。


それから私は引っ越しのために荷物をまとめた。
秀太とデートに行った時に作ったステンドグラス、誕生日にくれたネックレス、部屋に飾っていた2人が笑顔で写っている写真立て。
思い出の品で2つの段ボールがいっぱいになった。
私は思ったよりも少なく感じた。
私達の3年間はまとめてみれば段ボール2つ分なのだと悲しくなった。
その後は必要な備品をまとめつつ、最後に服を段ボールに詰めた。
最後にタンスの中に残ったのは秀太がクリスマスにくれた白いセーターだった。
顔を当てると、秀太の香りが強く残っていた。
そして最後に段ボールに詰め終わると、私は辺りを見渡し、居場所のなくなった部屋を後にした。



「懐かしいなぁ」
私は段ボールの1番上にあった白いセーターを手に取った。
顔を当てると、セーターにはダンボールの匂いが移っていた。
が、微かに秀太の香りがした。
「おい、どうしたんだ? 嬉しそうな顔して」
私が微笑んでいると夫が声を掛けてきた。
「ううん、何でもないよ」
私はそのセーターを丁寧にたたみ、そっとゴミ袋の中へ入れた。

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