パッションって、つまりは清濁併せ呑むってことなんだと思った話。
先日自宅に招いた人が、わたしにかけてくれた思いがけない一言。脳内リフレインが止まらない。
「まつもん(わたしのあだ名)って、パッションの人だよね。」
パッションを「情熱」だと理解していた。己の内側にはパッションはあるのかと自問自答を繰り返した。
どちらかというと、平常時のテンションは低い。ポジティブかと言われると微妙だし、感情もあまり表に出さない。根っこはしっかり生えていて、頑固とも、揺らぎが少ないとも言える。そんな自己理解をしている。
パッションのイメージは、赤だった。安直だけれど、燃えたぎる炎のような存在なんだと思っていた。だからその言葉をかけられてから、「わたしのイメージには合わないのでは」と疑問符が頭から離れてくれなくて困った。とても困った。
脳内ぐるぐるが止まらなかったので、語源を調べてみた。悩んでいたのがあほらしくなるほど、あっさりと腑に落ちた。
寒さが白の吐息に変わる自分の家でひとり漏らした「あ、そっか。」の言葉。なんだかいつもより空虚に響いた気がした。
passionの語源のひとつにラテン語の「苦しみ」があったのだ。この言葉はキリストの受難を指すことをはじめて知った。
パッションのイメージは、ただの情熱の赤ではなくなった。苦しみの上に成り立つものなのだと思うと、清濁併せ呑んだ人を指す言葉なのかと思い始めた。
まだまだその域には達していないけれど。わたしはパッションの人という言葉をもらったことを、なんだか誇らしく思った。
わたしの中で清濁併せ呑むことができる人というのは、儚さと逞しさのバランスが優れている人で。他者を受け入れる力があるってことは、誰よりも傷みを知っているってことだと思っていて。
これまで持っていたパッションへのイメージが、175度くらい変わってしまって、とっても面白い。
言葉の奥行きを新たに知ると、なんだか自由になれる気がする。
はじめての言葉をもらうときは、自分の見えていなかった側面を知れる素晴らしい機会だと思う。おかげで、わたしは思考の旅に出かけることができるようになる。
これからもたくさん旅に出たい。そして得たものを言葉に変えて、誰かへのギフトにできたとしたなら、それより嬉しいことなんてないんじゃないかな。
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カバー写真は徳島のアーティストインレジデンスで見た作品です。いろんな器が一体になっている様がなんだか個性的で、すごく好きで載せてみました。
普段の自分ならしないことに、サポートの費用は使いたいと思います。新しい選択肢があると、人生に大きな余白が生まれる気がします。