自伝

僕は何の変哲もない一般人だが自伝を記録しておく。

(出身)
山梨県の人口5000人の村に生まれる。家は世界的企業のファナックの近くにあり、焼肉屋でかなり繁盛していた。家の裏は自動車教習所になっておりその自動車教習所もかなり繁盛していた。ファナックはその後、土地を拡大しているで焼肉屋があったところも今はファナックの土地になっている。

(小学校)
村には小学校が2つ。小学校では3年からサッカー部に入ったがサッカーはずっと下手だった。小学校4年のときには授業も試験も簡単だったがそのころからヤンチャな奴らと絡みはじめ授業もあまり聞かなくなっていき成績も落ちてきた。いたずらもかなりしていた。そのころにはすっかりゲームにはまりエフエフ、ロマサガ、ライブアライブ、などをやっていた。5年か6年のときに朝にいきなり抜き打ちでIQテストがあった。めちゃくちゃできたが点数は教えてもらえなかった。

(中学校)
村には中学校は1つ。ついに村の同期が1つの学校に集結したので新しい友達ができた。中学校に入ってもゲーム三昧。中学校からは英語が始まったが基本的に授業は聞かないので英語は全く分からなかった。中学校に入ってもサッカー部だがやはり下手。中2の2学期の期末試験ではビリの成績だった。中3になると普通は勉強を頑張るが自分にとってはそんなことはない。むしろ、なぜ高校に行くのか、働き始めたら早く収入が得られるからいいのではないかと考えていた。ところが、中3の夏休みにサッカーの練習試合で久しぶりに友達と会ったときに勉強してそうにないやつも勉強していると聞き自分も勉強しようと改心した。あとは当時がんばれと言ってくれる尊敬できる大人がいたので自分も全うな道を行くべきかなあと思いつつあった。溜まっていた進研ゼミをどんどん進めていった。夏休みが明けてからの試験の結果では「高校に行けない成績」から「高校に行ける成績」に変わっていた。さらに成績はグングン伸びていき職員室でも話題になるくらいで友達からも「どんな勉強をしてるんだ」と聞かれた。成績が伸びていったので地元では最難関のクラスを目指すことになった。結局そこは落ちて同じ高校のエリートコースに入ることになった。

(高校)
エリートコースでは皆まじめに勉強している。しかし僕は宿題はやらない。でも授業は大体集中して聞いていたので学校の勉強にはついていけた。国語の授業は特別だった。先生が面白い人で生徒からはバカにされていてその人の授業中は他のことをやる時間になっていた。僕は別に他にやりたいこともないのでその先生とコミュニケーションしていた。そうでもしないと誰にも相手にされないような授業だった。親が離婚し母親が東京に移転していたので高2になるタイミングで僕も東京に行くことになった。そこで編入試験を受け合格できたので無事東京の学校に編入した。山梨の高校ではラグビー部に所属。上下関係が厳しかった。東京の高校ではバンドの部活と柔道部に所属。高3は勉強のやる気はあったけど精神的に余裕がなかった。大学受験に失敗し、山梨に戻って浪人生活を送ることにした。家でひたすら一人で勉強した。バイトもやりつつ。田舎の空気のもとで生活することで心身が健全になった気がし浪人して本当に良かったと思いながら生活していた。

(大学)
大学では物理を勉強。アメフト部に所属。やはりスポーツは苦手。大学入学と同時に住み込みの新聞配達をし毎日3時におきて8時には寝る生活。それをしながら授業とアメフトがあったので時間が全然足りない。新聞配達をするきっかけは中学のとこで書いた尊敬できる大人に提案されたからだ。しかし1年半たったときにその人が今度は新聞配達をやめるべしというので辞めて共同生活の下宿生活をすることになった。アメフト部の人は学部ではあまり勉強をしないので特に理系の人は勉強をするために大学院へ行く。大学院では一流の研究者がいる環境だった。しかし自分は居酒屋のバイトやアメフト部のコーチとかにかなり時間を使っていたので勉強はいまだに蔑ろだった。しかし母親には研究者になりたいと以前から言っており、それに対しすっかりと応援すると言われていたので、引くに引けないようになっていた。しかし指導教官から基礎学力がないからダメと言われ博士課程への道は途絶える。それが修士課程が終わる年の1月か2月だった。当然、就職活動をするとするとその年の4月入社ではなく来年の入社を目指すことになる。いろいろとトライしたが内定を得ることはできずに、既卒となり小さな八百屋でバイトしながら経済とかファイナンスの本を読んだり英語でブログを書いたりしてとりあえずは実力を高めておくようにしていた。そんな中、(まだ就職したことがないのに)転職エージェントと会ってアクチュアリーという職業(保険会社で数学を使った仕事をする職業)を教えてもらった。これはいいと思い転職サイトで見つけた仕事に応募し内定をもらえたので早速入社することにした。それが卒業した年の7月のこと。

(保険会社の時代)
保険会社では外人がいる環境だったので英語が基本の環境。最初は鈍な感じだったが徐々に実力をつけていった。あるときには社長賞に選ばれることもあった。以前から国際的な仕事をしたいという思いがあり、またイチローがアメリカで活躍していたのでアメリカに行きたいと思うようになった。アメリカから来た外人がいたのでアメリカに行きたいと何度もお願いしていた。そしてあるときに今ならいいぞと言われ社内異動的にアメリカに移転することになる。しかしそれは社内の辞令ではなく僕が勝手に言い出したことなので日本法人を辞めてアメリカ法人に入社するという形になった。なお、社会人になってからはバーでよく飲むようになりこれが僕が以前より社会的な人間になるのに役立ったと思う。大学時代は修行僧みたいな感じであまり社会的な人間ではなかったので。

(アメリカ時代)
アメリカに行くときは大げさに言えば生きては帰ってこれないかもしれないみたいな感じの覚悟をもっていた。社内異動的とは言えオファーレターをまだもらっていない状況でアメリカに降り立った。到着してから「もう到着したんだけどオファーレターはまだか」とメールしたらすぐにもらえた。アメリカでは毎日が楽しかった。何もかもが日本と違うだけで。ボストンにいたがボストンではいろんな人と会えた。英語は移住から1年、3年のタイミングでそれぞれ上達を実感できた。そろそろ結婚するような年齢ということもありマッチングアプリで相手探し。しかしなかなか難しい。アメリカでも十分に生活した気がするし日本に恋しさもあるしアクチュアリーを一生する気はないので転職したいしということで日本に帰国することにした。

(日本に戻る)
以前からコンサルをやってみたいと思っていた。コンサルは最初はなれずに大変だったが3年くらいたって自信がついてきた。しかし自信がついてきたころにある人から声がかかり保険業界に戻ることになった。保険業界でははじめての営業だったがいい勉強になった。日本に戻ってからマッチングアプリで相手を探し今の奥さんと出会った。2022年あたりから日本社会に興味が出てきた。経済や社会に対する言論があまりに混迷していることに歯がゆい気がしてきた。作家になって社会を変えるような本を出したいと思うようになった。また、会社員生活ももういいかな、独立するかなと思うようになった。

(独立)
二人目の子供が生まれるタイミングで会社を辞めた。生まれてからは当面は子育てに専念していて、さあ仕事を開始するかという直前に妻からNISAでもやってみたらと言われ、投資を始めてみた。金融業界にいたにも関わらず、投資はそれまでやったこともないし興味もなかった。投資を始めてみるとすぐにこれは面白いと思った。今までの経験はむしろ投資のためにあったのではないかとすら思うように。投資で生きていくことにしてイケイケで投資をしていたが徐々にこれは難しいぞということに気が付く。そして反省の日々…。投資を始めて半年たったときにようやく勝つ自信がついた。

…ということで、ここまで。今後も追記するべきことがあったら追記していきたい。



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