東直子『春原さんのリコーダー』

壷の上の林檎のようにおとなしく白髪まじりの髪ほどかせる

白髪・はくはつ


そぼそぼと降る雨音のおだやかさ 愛した人の悪口を言う


秘めやかな約束にも似て新生児の性器がコットンうす紅く染め


よい人とよい街にゆきよい花を育ててしんしん泣いたりしてね



東直子さんの文章で、「しゃがんで何かを考えていた」とか「しゃがんで何かを読んでいた」みたいな一文があったと思う。その一文の印象が妙に頭に残りつづけているものの、読んだのはもうずっと前のことで、それが東直子さんの文章だったかどうかもあやしい感じになってきた。

一冊の歌集を通して読むという、泳二さん主催の会でこの歌集をあらためて読んだときに、なにものかの力がありすぎて、ページ通りに順番に一首一首を読むような読み方ではとても読み通せないと思った。

そこに置いておいて、ふとしたときに開いたページだけをしゃがんで読んだり、出かける前に二、三首だけ読んで外へその歌の感覚を持ち歩いたり、そういう感覚でなら読めるし、そのときに必ずすごく好きな一首と出会う。座ってもっとまともに読もうと考えると道を誤ってしまう。歌集の全貌はずっと見えないままだし、分からない。ピカソの《泣く女》みたい。読むたびに顔が違い、自分がこれと思って見ていたところや見方が分からなくなる。

今この歌集を読むと、やっぱりジェンダー読みをしてしまう。そういう気分が高まって今文庫になったんだろうなあとも思ってしまう。ジェンダー読みでなくとも、そのままにしておいたこと、自分のものだったはずのことに引きつけて読んでしまう。読んでしまいたい。白髪まじりの髪に、雨音に、うす紅さに、いつか自分が見たはずだったり知っていたはずだったことを思い出す、甦る。そのときにもしかしたらどこかで泣かせながら、泣きながら、後ろめたさを抱えながら自分で与えた解釈に引き戻されてしまう。

なにものかに見られつづけている顔や、見られつづけていることを内面化した上でものを見ている目を、自分のうちがわの手で捉えようとし、バラバラに解体し、自分がもっているもの・もっていないもので組み立て直し、ひとつの解釈が表現される。くっつかないところやほころび、はみ出すところがたくさんあり、それらが短歌が抱える枠に立てかけたり絡ませられたりして、枠に委ねられる。枠を通して言葉の行き来のための風が入る。


1995年の阪神淡路大震災のあとの数日か何ヶ月か、新聞の言葉も話し言葉も、自分のなかでふわふわし出したのを感じていたのを覚えている(でもその感覚は薄まってきてしまった)。ほんとうは、言葉はいつも壊れそうなところでやっと成り立っているということ、約束ごとをお互いなんとか間に合わせたり磨き合うことで成り立っているというようなところ、自分たちが日常と呼んでいたところへゆっくり戻っていった。

壊れてバラバラになることをどこかで知りながら、それを孕んでキラキラ上りつめていく言葉の感覚や、壊れて約束ごとが平らかになった温度のない言葉の感覚や。短歌の横で出ている音楽や本や服やアートや、その影響もあるからなのか、そこでたしかにぎしぎし自らの生を削り出していた言葉、ざっくり「(短歌というジャンルで分けるなら短歌の、また、ある雰囲気や時代を区分してそう呼ぶなら)ニューウェーブ」あたりの言葉を今とても読みたいなと思う、最近。「壊れてバラバラになる」などは後から外からそう言えることで、なんだかほんとに今が壊れそうと自分が思うからなのかどうか、後から見たらそうだった、自分のなかのほんとうのことを語ろうとしていた、という積み重なってきた言葉を読んで安心したい。みたいなことを感じてしまう。しゃがんですこし読んで、傍に置いて、当面の目の前のことを見ておくために。傍らにわたしを見ているものがいる、そのために。


東直子『春原さんのリコーダー』(ちくま文庫)



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