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勝手にハードルを上げていた、だけかもしれない。


先日、編集者さんに、私が原稿のラフとして書いていた手描きの図解やイラストを「わかりやすい」と褒めてもらった。

完全に気を良くして、そこから、Instagramやnoteの見出しをイラストにするようにしてみた。

これが、好評だった。「なんだ、こんなことでいいのか」と思った。

だって、本気で絵を習ったわけでもないし、体とか適当しか描けない。そういえば、小学生の時に絵画教室に行っていたが、デッサンをしたことも、ほぼない。

でも、そういうことじゃないんだ。

伝わればいい。これって、文章と全く同じだなと思った。


プロになるための文章と、自分を伝える文章は違う

プロのライターになるための文章と、自分で自分のことや、自分のビジネスや、商品サービスを伝えるための文章は違っていい。

伝えたいと思っている相手に伝わればいい。


「うまいかどうか」は関係ないのだ。

「文章うまいですね」と言われたって、仕方ないのだ。それが目的ではない。

ビジネスにつながる文章は、「相手に動いてもらうこと」がゴール。「いいフレーズですね」と、自分の言葉を額縁に飾ってもらっても意味がない。


相手が求めているのは、「ソコ」なのか?

私は、独立する前、広告の制作会社で働いていたので、ポスターや雑誌広告や、テレビCMの「ラフ」をよく絵で描いていた。

伝わればいい、というレベルの人間や設定を絵で描いて、そこに文字を足す。

ポスターのラフの場合は、どこにどんな絵があって、どこにどんなコピーが入るかを、ラフに描く。それは、打ち合わせに持っていくためのものであって、最終的にどこかに出すものではない。

描いては消えていくものだった。

だから、「こんなラフをSNSにアップするなんて」と思っていたのだが、そういうことはでなかった。

その昔、メディアが「マスメディア」しかなかった時代は、「完成されたもの」しか出す場がなかった。でも今は、「未完成なもの」でも発表する場はある。

「そんなもの」と思っているのは自分だけで、他の人から見たら価値があるものはいっぱいある。

勝手に自分の中で「こんな程度では」「こんなレベルで出すのは恥ずかしい」とブレーキをかけてはもったいないのだ。

「それ」に価値があるかどうか、決めるのは、いつだって相手なのだ。


何のためにそれをやっているの? と思っていた高校生の自分に

私は、高校の時、帰宅部だった。

部活に一生懸命になる同級生たちをみながら「そんなことやって、何になるんだろう」といつも思っていた。

スポーツを一生懸命して、プロかなんかになるの? それが将来何の役に立つの? 体育祭の応援団になって、なんかいいことあるの? そのスキル、将来役立つの? 

そんなことを思いながら、学費のため、一人暮らしのため、とせっせとバイトをしていた。私は、「何かの役に立つ」ことしかしない人間だった。

だからだろうか、趣味がない。だからだろうか、友達もそんなにいない。(いや、これはもっと性格的な問題かもしれないけど)

でも、40歳を過ぎてようやく思う。

子どもの頃からずっと置いてきた「石」は、今の自分に全て回収できる。回収してもいいし、回収しなくてもいいけど。

どんな経験だって、回収して生きていける

広告の制作会社にいた時、「何で私が絵を描くんだ」と思いつつ、「コピーライターって言葉だけを考えるんじゃないんだ」と呆然としつつ、写真をひたすら探したり、下手ながらラフ画を描いたり、参考になるようにとありとあらゆる世界中の広告を見まくったりしていた。

いつも、憧れだったデザイナーさんの机の横に置いてあるゴミ箱に座って、デザイナーさんがMacで何をどうレイアウトするかを見ていた。デザイナーやアートディレクターの先輩が描いた、手書きのラフを、ゴミ箱から発掘して、今度はこういう風に描こうと練習していた。

全て無駄じゃなかったなぁと思う。

「自分が今やっていること」を、勝手に、「大したことじゃない」と決めつけるのはもったいない。

自分の価値を、小さく見積もってしまうのは、いつだって自分だ。


自分の思いを、自分の言葉で伝えたい人に向けて書きました

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