良心の選択

正義という言葉はあまり好きではなかった。
私の中の『正義』に対するいわれのない悪印象は主にジョージ・W・ブッシュ時代の対テロ戦争が『無限の正義』とかいって始まった(Operation Infinite Justice)あたりに端を発している気がする。相手に如何なる理由があろうとも、自らに原因の一端があろうとも、これが自分の正義なのだと主張すれば何をしてもいいというようなエゴイスティックで狂気じみた概念に見えた。正義とは、人の数だけあり、かついつ暴発するかわからない危なっかしいものだと思っていた。

けれど先日、『正義』には本来愛があるのだ、『義』があるかどうかなのだと言われ、なるほどと思った。そういえばそうだった。遠い昔読んだ武士道にもそんなことが書かれていた気がする。義とは道理であり良心に基づいている。
私はとりあえず正義といえばブッシュ氏の顔が思い浮かんでしまうこのシナプスを繋ぎ直さねばなるまい。

あらゆる宗教は、いかに生きるかという問いへの回答だ(少なくとも私にはそう見える)。
もう記憶もまばらだが幼いころ教会に通っていたときに聞いた聖書の言葉を思い起こせば、富は天に積めとか、人にしてもらいたいことを人にしなさいとか、内容はざっくりいって『善く生きよ』だったように思う。押井守監督のイノセンスに引用されていたブッダの言葉で『孤独に歩め、悪をなさず、求めるところ少なく、林の中のゾウのように』というのもあった(ただこれは生き方というより、愚かな者を伴侶とするくらいなら独り身でいろ、みたいな婚姻訓だった気がするけど、まあいいや)。とにかく『善く生きよ』。言い換えれば、正義に生きよ、にも近いかもしれない。

他方、最近はよく『霊』の話に触れる機会も多かった。沖縄ではサーダカウマリ(霊感がある)と呼ばれる人にしばしば会う。先日も宮古島でとあるユタの霊性の発露の現場に居合わせ、不思議だなあ、こういう現象は人にとってどんな意味があって古くから存在しているのだろう、などとつらつら考えてもいた。

そんなタイミングで母に「これ読む?」と、エステル・ステッド編(近藤千雄訳)の『ブルー・アイランド』という、我が家のどこかにしまい込まれていたスピリチュアリズムの本を差し出された(ちなみに母は内容自体はほとんど覚えていなかった)。霊界通信の話だ。
スピリチュアリズムという言葉もまた、なんとなく胡散臭く魑魅魍魎が潜んでいそうで正義に続いて個人的に印象があまりよくなく、実態をよく知らないので発語するのに抵抗があった単語のひとつなのだけど、読んでみたらとても興味深かった。
これはホンモノか、とか、真偽のほどは、といったことについてはさほど興味がないのだけど、自分がどう生きるべきかについてだいぶ根本的な事を思い出させてもらったのは確かだ。それは何かと言えば、『良心に従った選択をする』というとても単純なことだった。でもそこには必ず愛があり、正義がある。

目の前の利益や心配事に支配されて自分を欺くことのないよう、思い悩むことのないよう、信じ、愛を持って人のために。こう書くと、どれだけ聖人なんだ!という感じがするが、それは常に良心に従った選択をする、ということとほとんど同じことなのかもしれない。

残りの人生で、どれだけできるかな。

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