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メディア野郎 田端 信太郎 氏との出会いと珍道中(Google編)

君、今日からGoogle担当ね

そんな田端さんの一言から始まったGoogle担当。
具体的にはGoogle AdSenseをベースにGoogle社と様々な業務連携を行う担当である。当時はまだGoogle日本法人の設立から5-6年?くらいでオフィスも渋谷のセルリアンタワーにあった時代だ。
Google AdSenseという広告商品自体も日本でのリリースから数年というレベルでブロガーの収益源として徐々にシェアを広げている状況だったと思う。そんな中、ライブドアは自社メディアサービスの収益源としてGoogle AdSenseの導入を本格的に始めていた。

先代から受け継いだGoogle AdSense

ちなみに、ライブドアのGoogle AdSense担当というとよく自分の名前が上がるのだが、実は自分は2代目であり先代にはH君という物凄い人物がいたのである。(ちなみに彼も同じく田端チルドレンである)
H君がGoogle AdSense掲載のために畑を耕し(メディア開拓)、種(広告タグ)を植え、そして花(売り上げ)を咲かせた。私はそれに毎日水をやり、より花を大きく(売り上げ増加)させ、彩り(手法)を添えていったという役割分担だった。(ちなみに3代目はいないw)

手探りで始めたメディアのマネタイズ

当然Google AdSenseだけではなく,そもそも広告の仕組みに対する理解も薄く、何をすればいいか変わらない。急に担当となり困惑する日々。でもとにかくやるしかない。ローディー時代に培ったメンタルが生きたw

まずは打ち合わせに何くわぬ顔で出席し議事録をとる。そして分からないことはメモして後でGoogle担当者に電話で聞くという事を繰り返した。今思い返すと電話とは迷惑な話である。
その時担当してくれたのは河村 徹 氏であり営業担当という枠を超えて親身に相談になってくれ助けてもらった。広告配信の仕組み、開発仕様、様々な視点で勉強させてもらった。今はアメリカで活躍されておりライブドアの担当から外れた後でもたまにだが連絡を取ったり一緒に食事に行ったりはしている。

徐々に手応えを感じ始めた

手探りで始めたメディアマネタイズも徐々に手応えを感じ、打ち手が少しづつ分かりやすく売り上げに繋がっていった。そして楽しくなった。
策をうつ→成功→売り上げアップ→喜ばれる→他サービスからも期待される→策を横展開→成功→会社の売り上げも底上げ→個人の評価も上がり給料も上がる→さらに策を考える。

ついに見つけた自分の居場所

2005年の入社以来これと言った特技もなく淡々と仕事という名の作業をこなしてきたがついに自分の居場所を見つけたタイミングでもあった。

毎日続けた壁新聞

当時、これも田端さんの指示で始めた業務の一つであるが、毎日チームのAdSense売り上げの予実とチーム毎の対策事例を自分がコメントとして記載し各チームのマネージャーの顔写真付きで(会社の入り口に)壁新聞として貼り出すという仕事をしていた。全体の売り上げが悪い場合は田端さんの怒った顔写真を貼り、順調な時は笑った顔写真を貼るなど「見てもらう」ためのアイキャッチの工夫も毎日した。1日でもサボると「昨日壁新聞貼り替えた?」と鋭い指摘が飛んできた。

たまたま書いたAdSenseブログがさらに転機を

ライブドア(この時はもうLINEか..)ではディレクターが持ち回りでブログを書くというのが習慣となっており、私にも出番が回ってきたためAdSenseに関する記事を掲載したところ思いのか反響があり、この記事を見たGoogleの担当者より電話があり、会って話がしたいと。(ヤバイ!怒られる)

その担当者が当時Googleに在籍していた坂本 達夫氏である

このブログをきっかけにGoogleのオフィシャルブログ「Inside AdSense」やYouTubeでのオンライン講師、オフラインでのセミナーなど様々な場を提供してもらった。一時期は週に数回Googleオフィス(この時は六本木ヒルズ)にお邪魔し打ち合わせを繰り返し社食で美味しい食事をご馳走になっていた。感謝。

有名ブロガーのマネタイズ支援も始める

この頃からさらに業務外で個人ブロガーのマネタイズ支援も行ってました。
2人とも超有名なブロガー。お礼に美味しいご飯ご馳走してもらった。感謝。


ついにAPAC NO.1の売り上げを叩き出す!

もう勢いは止まりません。徐々にマーケットのトレンドも純広告としてのバナー商品は厳しい時代に。社内でも倒幕を進める薩長軍のように自社メディアの純広告枠をネットワーク広告に差し替え、会社の売り上げシェアの大半を占めるようになります。

当時、田端さんは広告事業部の責任者という立場でもあったため当然純広告という商品の立場も守らなければならない反面、売り上げの責任もあるという難しい立場だったが「お金に色はない」と収益最大化の方にどんどん舵を取っていきました。幕府方の人間でもありながらうまく倒幕派に加担する勝海舟のような人でした。(言い過ぎかも)。

そしてついにGoogle AdSenseディスプレイ部門でAPAC NO.1(自分調べ)にまで成長するのである。そしてこの頃からいつか自社で広告プラットフォームを作りたいと密かに考え始めてました。なぜならプラットフォームを立ち上げるために必要な三種の神器とも言える、開発力、自社メディア、資金力が揃ってるLINEなら出来ると確信してました

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当時のGoogle責任者Sさんが個人的にトロフィーを作ってお祝いをしてくれた。*自分は写真取ってたので写っていないw *写真左は当時一緒にマネタイズ事業をleadしてくれた佐々木 大輔氏(現在はSmartNewsでメディア事業開発の統括をされている)

そしてアドテクに熱中する

この頃から、アドテクという言葉と共に様々な広告配信技術やプロダクト(RTB,DSP,SSP,DMP etc..)が日本でも活用されるようになり,勉強しながら徐々に外部セミナーでの登壇など含め露出を増やしていった。

そして時代は大きく動き、退職を考え始める

そして月日は経ち、順調に進むと思いきや、LINE公式アカウントとLINEスタンプの登場によりLINE社におけるネットワーク広告の売り上げシェアは縮小し、私の業務は表舞台から徐々に退くことになります。合わせてLINEの広告プラットフォーム立ち上げという夢もなかなか見通しが厳しくなってきていた。ちょうどその頃、メディアへの露出も増えていたこともあってかありがたいお誘いを何件かいただいたこともあり、ここまでか。。と退職を考え始めほぼ決断の手前でした。(今だから言える)

新たな救世主現る

そんな時でした。当時はLINEの執行役員であり現在はLINNÉ LENS(リンネレンズ)で活躍されている杉本謙一氏に「LINEのTIMELINEにインフィード広告を作ろうと思うんだけど一緒にどう?」と声をかけていただいた。

「土壇場での大波だ。間違いなく過去最大の大波が来る。」
「乗るしかない、このビッグウェーブに」
と確信した瞬間でした。

続く。

次回はいよいよ終盤のLAP編。今でも絶対的な信頼を置いている池端 由基 氏(現在はLINEの広告ビジネス事業の執行役員)との出会いとLINE Ads Platform事業(LAP事業)の立ち上げ。そして卒業の決意です。

次回予告(仮)
「LINE Ads Platform事業(LAP事業)への思い、そして卒業。」

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