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「反応するニッチ」と「反応しないその他大勢」

ツイッターやフェイスブックなどのSNSで様々な主張が先鋭化しがちであることについて考えていた。政治社会的な分極化(polarization)のテーマと言い換えてもいいかもしれない。

良く知られていることだが、SNSで他者から何らかのリアクション(いいねやリツイート、シェアや新規のフォローなど)をもらうことには心理的な報酬がある。心理的と言ってもその報酬には避けがたい身体性があり、身体が喜んでしまうと言ってもいい。

したがって、意識してか、無意識のうちか、SNSのユーザーは他者からのリアクションによって得られる報酬を求めて自らの振る舞いを調整し始める。どのように文章を並べるか、改行はどうするか、文体をどうするか、語尾や言い切りの強さをどうするか、写真はどうするか、どんな記事を紹介するか。

フォロワーが多い人々は基本的にここら辺の土地勘に優れていることが多い。投稿の内容はもちろん大事だが、その内容をどう包むかに関する技術に長けている人々のフォロワーが増えやすいのもまた真実である。

自分の過去のツイートを例として取り上げてみたい。「経団連の正副会長19人の同質性」を伝える日経新聞の記事を紹介した投稿が7500回以上リツイートされている。

振り返って見過ごせないなと思うのは、この投稿が7500回以上「リツイート」される間に100万回以上も「表示」されているということだ。1人で何回かこの投稿を目にした人がいるにしても、数十万人の目には触れている計算になる。

こうした数字は、以下のような形で簡単に見ることができる。「インプレッション」というのが表示回数、「リツイート」がリツイートの数を示している。

つまり、この投稿を目にした人全体の1%前後しかリツイートという形での反応をしていないのだ。いいねの割合もほぼ同じである。

ちなみに自分の過去の投稿で同じようにリアクションの大きかったものをいくつか見てみたが、どれも先の投稿と似たような数値感であった。むしろ1%より低そうなものもたくさんあった。

つまり、傍目には“バズっている”投稿であっても、99%の人からはスルーされているのだ。

「反応するニッチ」と「反応しないその他大勢」。「ニッチ」からのリアクションによる心理的報酬は、圧倒的「その他大勢」からのノン-リアクションの存在を忘却させる。

想像するべきは、99%によるその無反応が本当にただの無反応なのかということだ。

もちろん、全くのスルー、投稿の存在に気づいてすらいない他者もかなりの割合でいるだろう。しかし、投稿やそこに記された言葉を目にした上で、リアクションしないことを意識的に選択した他者もまた多いに違いない。そのとき、かれらの心のなかでどんな変化が起きているだろうか。

目に見える反応の多くが肯定的なそれであったとしても、目に見えないもっと多くの無反応の中にたくさんの否定的なそれが含まれているかもしれない。しかし、そのリアクションや心の動き、変化は、リツイートやコメントなど目に見えて計測される数値には含まれない。だから、簡単には知ることができないのだ。

一般に「炎上」というのは、顕在化した反応の数が多く、同時にその多くが否定的なそれであった時にそう形容される。反対に、顕在化した反応の数が多く、同時にその多くが肯定的なそれであった時には「バズった」などと形容される。

しかし、いずれのカテゴリーもが捉え損ねているのが「顕在化していない反応」、つまり「表面的な(無)反応の裏に隠れたサイレントな反応」ではないだろうか。

顕在化した反応については、肯定的/否定的のバランスを把握することはできる。しかし顕在化していない反応についてはその把握が実質的に不可能だ。

これが何を意味するかというと、1%が肯定的(or否定的)にリアクションした投稿の裏で、残りの99%がどう思っているかはよくわからないという当たり前の事実である。

「反応するニッチ」が喜んでいるからと言って、社会全体が自分の方に近づいてきているとは限らない。むしろ、サイレントな「反応しないその他大勢」を自分から遠ざけてしまっている可能性すらあるのだ。

「1%」というと小さく聞こえるが、その1%は「何千、何万のリツイート」という形で現象することがある。だから、危ない。

99%が何を考えているかを想像せず、「何千、何万のリツイート」をくれるたった1%が喜ぶようにと、自らの振る舞いを調整するインセンティブが働いてしまうからである。

大切なことは、私やあなたがたくさんの肯定的リアクションから大量の心理的報酬を得ている間に、私やあなたに対して「なんか違うな」「嫌だな」と思っている人も同時に大量発生しているかもしれない、そのことについて想像してみることである。

一番簡単な方法は、自分が誰かの振る舞いに対する「反応しないその他大勢」であったときを思い出すことだ。遠目から「うーむ」と見ていて何の反応もしなかったことは誰にでもあるだろう。

先のツイートの例で言えば、「経団連の闇に切り込んだ記事紹介したらめっちゃRTされた〜」などと能天気にぬか喜びしている間に、大企業で働いている人などから嫌悪や不信の目で見られている可能性もあるのだ。後者の隠れた反応については、意識してアンテナを研ぎ澄まさなければ気づくことができない。

分断や分極化というテーマが語られるとき、取り上げられやすいのは顕在化した「反応するニッチ」同士の対立構造であるように思う。しかし、「反応しないその他大勢」の潜在的でサイレントな反応にこそ、分極化の本質があるのかもしれない。

一人ひとりが「自分にとっての1%」ばかりを意識して振る舞うとき、社会は分極化する。反応しない「99%」は確かに実在しているのだ。意見があって、投票もする人間たちが大量に存在しているのである。

SNSで得られるリアクションには短期的な心理的報酬がある。しかし自らの振る舞いは長期的な視点から見て自分から遠くにいる人々、異なる人たちとの間に対話の基盤を広げることができているだろうか。むしろ元から自分に近しい場所にいた人々以外をより遠くの方へと追いやってしまっているのではないか。

そんなことを一人ひとりが想像する一呼吸が、いまとても大切な気がする。

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