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私の芸術運動④モチーフとの対話

前回の記事の続きでです、どうぞよろしく。

前回まででアレやこれやと色々自分の人生観の様なものを書き連ねて来ましたがここからはやっと自分が形にしてきた絵画に話を移してゆこうと思います。

自分の描いた絵を通して私が表現したいものを文章としてここに残そうと思います。

とはいえ、独学で油絵を始めてから何やかんやで6年間が経ちました、コロナが流行して画歴の半分は沈黙状態でしたが絵は細々と描き続けてきました、作品数も増えて部屋には収まり切らず実家に7割程送りました。(売れないから溜まってく。、笑)

私のこの芸術の6年間を総括して話すとうまくまとめられそうにないので何作品か選び自分の描いた絵に改めて迫ってゆこうと思います。

まずはそうですね!これから行きます

タイトルは向日葵です、そのままですね。

夏を連想する花の代表でしょう、ゴッホもひまわりを何点も仕上げています

このひまわりは夏の終わりに近所に咲いていたのを見つけました

私の背より高かった様に思います、しかし夏の日差しを糧に変換し切る生命力がもうこのひまわりにはもうなさそうに感じました、例えて言うならば、夏の日差しの中、ほっかむりを被り畑仕事に従事する老人を感じました、生まれてからずっと畑に立ち、この夏を何回も何回も超えてきたのです、来年も再来年も、自分が生きるために生きている間は畑に立つのです

私はこのひまわりに日差しを浴び体力をジリジリと奪われるが、生きる事を諦めず懸命にそこに立つ姿を見ました、黄色い花弁を広げて自分を見てくれ!!という余裕はありません、力の限り立ち続ける、そこに生命を見ました

本当のひまわりを私は見たのです

かなり初期の作品ですが画面いっぱいに生命力が充満している様を表現できたのではないか?と思っています、同時に死に対する認識とそれによって引き出される強烈な一瞬一瞬が夏の日差しのように心にいつまでも残り続けるのを感じます。

テーマはまさに生と死です。

次の絵はこちらです

タイトルは「宮津湾を眺める薔薇」です

これは一人旅で行った宮津湾、そこに架かる天橋立を一望できる公園があると知って朝に登ったのです

シーズン外という事で観光客は少なく寂しい感じがしましたが私はそんな雰囲気が昔から好きなのです、ゆっくりと対話できる気がするからです。

ここ天橋立ビューランドからの眺めは美しく風を浴びると時間の感覚が吹っ飛びました、私は時間の感覚が良く飛びます、私の眺めているこの景色を昔の人もここから眺め対話したのだと思うと私はその過去に同調してしまうのです、その逆もまた然りです、この先の未来で私の見たこの景色、描いたこの景色を眺める人々と同調するのです。

この景色を眺めていたのは私たち人間だけでなく傍に咲いていた薔薇の群生が目に止まりました、その薔薇は宮津湾を確かに眺め揺れていました、私はこれからこの山を降って下に見える天橋立を渡ってゆこうと考えていました、その後、山を降りる道中も、天橋立を渡る道中もあの薔薇の視線をどこからでも感じることが出来ました、東京に帰って来た今でもふと心で感じます、だからこうして絵になったのです。

2枚の絵を紹介させてもらいました

私がそれを絵にしようと感じる動機はきっと対話なのです、時代を超えてその場所で繋がるいろんなものを私は感じ取って始めて絵にできると感じます、私は見て感じて聴いたものしか絵にしません

私の思う芸術とはそこらじゅうにありふれた物事を再発見し、そこに心の結び付きを感じることです、芸術は特別な事柄ではなく、ましてや自分の中に特別な才能があるから発生するわけでもありません、今までもそこらじゅうにあったものに愛を感じた時に生じるものです

モチーフになってくれたものたちに私は神社でお辞儀をするのと同じ様に感謝いたします

昔の日本人が八百万の神と言ったのも大いに同感です、日常のたわいもないと、思われている事に神聖さを感じます。

芸術は、芸術家とモチーフとの間で行われた対話から生じるものだと断言いたします

作品として私が形にする事で、その作品を見た人達とも繋がりが生まれ対話が始まります

それぞれが聴いた話を持ち寄って大いに語り合える場が有ればいいなぁ、と心から思います。

ここからそういう繋がりが広がってゆく事を楽しみにしています。

Instagramで作品を随時発表しています、久々に個展も考えていますがまだ先のことになりそうです、Instagramからこういう画家がいるんだなと知ってもらえたら幸いです、タッチして貰えばページに飛びますので遊びに来てください、お話ししましょう。。

ではまた次回。。

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