私の芸術運動191幸福論

自分の心の思うままに

心の声に従う

そんなニュアンスの言葉が多くあります、私は芸術を志していますけど案外疑り深い人間で、自分の心の声にというのにも疑念を思います。

心の声がそうしろと言ったならそれが全て正しいか?そんな事はないと思います

そんな都合のいいことはありませんよ、だって人間はついつい楽な方に向かってしまいますから、自分の心の声は判断材料の一つでしかありません。

私は自分の心とよく戦います、そんな時に、心の声の通りにはいかない事が現実に起こったりするなら私はそれは受け入れるべきことなんじゃ無いか?と思うのです、芸術家ならもっと素直に自由に破天荒に生きた方がそれっぽいかもしれません、しかし、それはイメージでしかありません、世間一般の芸術家へのイメージです、それは私ではありません、その証拠に、心に素直に生きた人間が芸術家になるわけじゃありません。

最近の私の心は不平不満が募ってついつい愚痴を漏らしてしまうことが増えました、心の声に従っていてはキリの無いことに感じます、それよりも自分の心に言って聞かせて素直に純真に生きてゆきたいものです。

今は世界中が何かの影に怯えて生きているような気がします、自分の心が脅かされ狂ってきたように感じます、そんな時でさえ私は絵を描いて日々を何とか凌いでいます、絵を描かなかったら喉をついて出た愚痴がとめどなく流れ出てズブズブ沈んでいくような気がします。

今取り掛かっている新作の油絵に、目の前の絵に必死になる事が大切に感じます、精神的に窮屈に感じる事でも、キャンバスの前ではちっぽけなことに感じます、芸術には心を解き放つ力があるのです、解き放つというのは自分の心の声に従って愚痴をぶちまけてスッキリする事じゃありません、日々の心の機微を体験しながらも何とかやっていく、何かに脅かされていても、怯えていても、辛くても、悲しくても、とにかく何とかやっていく、目の前の本のいっしゅんの事に左右されず、こういう時もあるさと悲しく微笑んででもトボトボ歩いていく事です。

目の前を通り過ぎてゆくほんの一瞬が全てじゃありません、囚われず、執着せず、やるべき事をやる、今は特に、目の前の事に全てを囚われる事が命取りとなる時代かもしれません。

私ももっと自分の心を上手く乗りこなして肩の力を抜いて生きていきたいものです

逆に私が絵を描いていなかったならば、もうそれは今の私とは全くの別人だったでしょうし、むしろもう生きてはいなかったかもしれません。

何の見返りもないまま、今の今まで画家として何とか生きてきましたが、私はその本当の有り難みを知らないだけなのかもしれません、絵を描いているだけで素晴らしいのでしょう。

売れない画家の言い訳と捉えることもできますが、それはその人の受け取り方の問題です。

私は(ごくごく普通のありふれたたわいもない事)絵にする様な画家ですから、私自身もそういう人間なのでしょう、多分これは高度な幸福論です。笑

まだ描き途中ですが製作中の作品を載せておきましょう。

極楽寺周辺

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