日本人の死生観
生きているからには死は避けられません。
どれだけ筋トレしても、どれだけ健康に気を使っても、人は貧富や身分に関わりなく、生まれたからにはその生涯を閉じること、死ぬことは避けることができません。
誰もが「最高の人生の見つけ方」のような結末が迎えられれば、ハッピーですが、どのような最後を迎えるにせよ「死生観」をコントロールできなければ、どんなに裕福だろう権力者だろうと充実した人生が送れません。
人は必ず人生の最期をどのように迎えたいか、人それぞれに考え方が違います。仏教でも聖書でも「死生観」についてのヒントは転がっているのですが、この「死生観」について学校や親はおそらく死後の世界について教えてこなかったと思います。
戦後教育の問題点にもなりますが、殆どの日本人は、そもそも死後について語ることが出来なければ、考えることすらタブー視してきたきらいがあるからです。
日本人の殆どが「死生観」について考えることがありません。生涯の最後について今一度考え直してみる必要があります。
変化した日本の死生観
生と死は人類不変の、あまねく宗教や自然界に一貫した民族心理の共通の発着点としての普遍のテーマのようなものだと思われがちですが、死生観は常に思想の変遷、政治背景、技術の発展等の影響を受けて、変わり続けていく身近なものでもあります。
古来、日本は八百万の神や神仏習合の時代が続いたのもあり宗教観がない交ぜになっており、「死生観」に関しても輪廻転生だったり、地獄絵図だったりと曖昧でしたが、近世に至って三位一体のような論理や哲学的な裏付けが取られ始めました。
私見も入りますが、日本の死生観の変遷についてざっくりと説明します。
おくりびとにみる死生観
アカデミー賞を受賞した2008年の映画『おくりびと』では、本木雅弘演ずる主人公・小林大悟に向かって、「死は門だなって。死ぬってことは終わりってことでなくて、そこを潜り抜けて、次へ向かう、まさに門です」というシーンがあります。
日本独特の葬式の習慣を描いたこの映画が、死者の弔い方や考え方に文化の違いがあるということで、アメリカ人にも認められ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。
「おくりびと」というのは、「死んだ人を『あの世』(死後の世界)に送るひと」という意味です。
アニミズム的死生観をそこに宿しているわけですが、ここでいう「門の外の世界」は現実と全く離れた場所ではなく、隣り合っている。神道においては「黄泉の国」を表しています。
海外の人から見るとエキゾチックな雰囲気で分かりやすい「日本の死生観」を説明してくれる映画だと思いますが、ただ、日本人の中にも「死生観」がそれぞれ異なりますし、この映画をもって一般的に、日本人に明瞭な「死生観」が存在するという説明にはなりえません。
神道と死
ちなみに神道では死は穢れとあります。
日本の国土を生んだというイザナギが、死んだ妻・イザナミへ会いに死後の世界である黄泉の国へ行き、ウジ虫がわいて変わり果てた妻の姿に驚いて逃げ帰るという言い伝えにあるように
この慣習はもともと死体に対する衛生的な問題が原因といわれています。
高温多湿な状況下では遺体をほおっておくと、そこから腐臭がし、遺体を鳥や獣が食べてさらに疫病が蔓延する原因となります。
死に化粧も遺体の初期処置としての防腐として効果があったとされ、葬儀の後に四十九日という自粛期間や禊という習慣も、疫病対策と言われています。
高温多湿のわが国と、聖書の舞台である乾燥地帯の中東では環境が大きく異なるため、死生観にもこれほど違いがあるのです。
先人の慣習は合理的な理由があったのだなとつくづく考えさせられます。
遺体に執着する日本
遺族が遺体に対する姿勢も、ほかの国にくらべると異様です。殺人事件ならともかく、事故や災害があるたびに判らなくなった遺体を長い時間をかけていちいちチェックする姿勢は他国からすれば少々神経質で非合理にもみえます。
日本人の縄文文化は、一度身に付けた「亡くなった仲間を浄土に霊として送り届ける」と言う文化よりも、身近な「草葉の陰」で見守っていて欲しいと言う意識が強かったでしょう。
最後を迎えた仲間たちは祖霊の依代として儀式の役割を果たしていたといわれています。
本来的言えば、日本の祖先崇拝は遺体に無頓着であり、「神道の死生観」には遺体はさほど重要ではありません。火葬によって解体された後に残る、何某かの遺品への愛着心に魂が収斂されて、霊として祭られていけばいいというものです。
「遺体に執着する」ということは仏教的にもあまり良くないことです。
また、死者のことを仏といい、これは仏教の死生観と古来日本の死生観とが矛盾しているようにみえますが、そうでもありません。仏教では死も生も無常ととらえ、これはタマゴが先か、ニワトリが先かの議論と一緒で、どちらも先であり後であり、因果関係はループしているのです。
生きることを楽観的に考えていたそれまでの日本人に、「生きることの苦しみ」についてスポットを当てたのが仏教でした。
中世以降、仏教儒教の混合時代になってくると、宗教的繋がりはもとより、共同体的繋がりが強く求められ、亡くなった後も仲間は身近に居てほしいと言う意識が芽生えてきます。
遺体への執着というのは、依代を通じて英霊の一部となることでその人と社会的な繋がりを持ちたいという儒教由来の英霊信仰によるものと、遺体の穢れを残したまま自然に返すと災いが起こるかもしれないという、潔癖思考や恐れおののきが根底にあるのかもしれません。
他の国に比べて火葬が容易に取り入れられたのも、昔の日本はことさら遺体そのものに熱心ではなかったのだと考えられます。
キリスト教の影響を受けた死生観
死生観に及ぼすものといえば戦争の影響も外せません。
中世からの武士道を象徴する「武士道とは死ぬことと見つけたり」なんていう言葉は戦の世によって集約された死生観を表す代表的なものです。
江戸時代にあると、神道の死生観においては平田篤胤が説いた幽冥界などありますが、あくまで知識人むけでメジャーとは言えず、幕府が檀家制度をとっていたせいもあり、死生観は浄土宗系の世界観(極楽浄土と地獄)が主流となっていました。
宗派や教派により解釈が分かれますが、近世以降の死生観にはキリスト教の影響も多分にあると思われます。
明治維新後の死生観は日本の近代化と共に大きく変革期を迎えました。
人権思想や自由思想などそれまでの伝統的な死生観とのギャップを埋め合わせるようなアイデンティティを確認する作業が必要でした。
1977年に出版された加藤周一らが書いた「日本人の死生観」という本があります。
この本では、過渡期としての日本の近代化に注目し、葛藤し、悩みながら生き抜いた陸軍大将乃木希典、陸軍軍医かつ文学者の森鴎外、思想家の中江兆民、経済学者の河上肇、文学者の正宗白鳥、文学者の三島由紀夫という錚々たる面子たちが、時代の変化に葛藤し悩みぬいた様子について、その死生観を伺うことができます。
押し寄せる先進的なものと、伝統的なものとの間で日本人としてのアイデンティティを作り上げることに苦闘したところは現在の日本と変わりありません。
つまり明治以降は神道思想が人権思想と融合する必要があったのです。
そのために明治時代に添削された昔話や逸話が数多くあります。
近代化した日本ですが、満州事変以降に「悠久の大義に生き、死をみること帰するが如し」という武士道の神髄と達観が、「国のために命を捧げよ」というフレーズとともに、戦争に行くときの戦闘意欲を鼓舞するために利用するようになります。
これは日本だけではないですが、散っていったものが英霊として祀られるわけです。これは人権思想との整合性がなかなか取れないため、今でも問題になっています。
これが戦後なって若者を戦地に向かわせるための手法だとして、GHQの主導により、死生学が国家と結びつくようなことはすべて禁じられるようになります。
その結果、葬祭や宗教を忌避するようになり、死について考えることがタブーとなり、学校でも死について論じられるより、「人権」「平等」「平和」といった生きることについて尊重され、日本の若者の死生観の視点は長らく欠落し、死よりも愛といった退廃的なカルチャーが一世を風靡するようになります。
戦後、日本の若者は生きることに執着し、長らく死について考えることをやめてしまいました。
311で大きく変わった死生観
死について避け続けてきた日本人。
学校においても死について教えてくれる人はだれもいなくなってしまいました。
ところが最近日本人の死生観を大きく変える出来事がありました。
2011年3月11日に起きた東日本大震災。
これ以降の関連災害は日本人の精神世界についての流れを強くした大きなパラダイムシフトでした。
震災のショックで死が目の前に来た時、ついに誤魔化して逃げるわけにはいかなくなったのです。
死に対して考えないようにした現代人は、死に直面する出来事に遭遇した時に、もろく崩壊する精神構造になっています。
日本人は今一度、精神的な成長を取り戻すときが来たのかもしれません。
どのような成長を遂げて、どのような人生を閉じるか。死に対して無知ならば、生きることにたいして無関心になります。自分が生きることしか考えなければ、他人の死に興味が無くなります。
これから高齢化社会が加速する中、「安楽死」や「終末医療」なども議論を進めていかなければならず、わが国の「死生観」は「人権思想」や「スピリチュアル」を習合し、常に進化を続けていくと考えられます。電子的な生き死についても世界中で議論が分かれると思います。
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