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プロになると決めた日


〜 小学校生活 〜

小学生に入学すると、
病弱な幼少期とは打って変わり、
休みの日には友達と鬼ごっこや警泥、
缶蹴りなどを楽しみ、
学校の休み時間にはドッチボールをチャイムがなっても楽しんでいた。

光過敏性発作の影響はまだあり、
映画館などには行けず、学校での年3.4回ほどの全校生徒での映画鑑賞の日には、1人観る事は出来なかった。

しかし、悲しむどころかむしろ喜んでいた。
なぜならその時間に、、、

校庭を1人貸し切り、
サッカーボールを蹴る事が出来るからだ。

本来は職員室で先生と勉強するのだが、
それを断り1人で校庭へと向かっていた。

そんな活発でやんちゃな小学生だった。


〜 サッカー (小1〜小4) 〜

サッカーでは、週4日のサッカーの練習や試合で、
一生懸命ボールを追いかけ、
サッカーを楽しむ毎日であった。

小学生では、FW、MF、DF、GKと全てのポジションをやらせて貰っていた。

この頃の得意なポジションはFWやトップ下で、
得点やアシストを量産していた記憶がある。

強豪ではない地元のサッカーチーム(南大阪SS)だった為、3年生の頃からは6年生の試合にも出場していた。

捻挫や骨折など怪我をする事はたまにあったものの、手術するまでの大怪我はなく、
今考えると小学4年生頃までが唯一順調なサッカー人生を送れていたのかもしれない。

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(写真中央)


〜 さまざまなスポーツへの挑戦 〜

この頃、両親は小学生の時にサッカーだけではなく、色々なスポーツに挑戦させてくれた。

サッカー以外にも、野球、ソフトボール、水泳、サーフィンなど。 

サーフィンに関しては父が自称プロサーファーであった為チャレンジしたが、
1回目の挑戦で波にさらわれ、ボードが頭を直撃し、気絶。もちろん死にかけ、母が激怒し、
それ以降少年時代にチャレンジする事はなかった。笑

色々なスポーツをやらせてもらった中で、
他のスポーツへの誘惑もあった。

しかし最終的に、
サッカーを心に決める重大な出来事があったのだ。

僕の家族は、母はサッカー好き。
父は野球好き。

こんな家系である。

母の影響でサッカーを始めていたのだが、
父親は、自分が子供の頃にやっていた野球を、
実は僕にやらせたかったのだ。

前回のnoteで述べた通り、
両親は僕の意思で何事も決めさせてくれた。
なので、決して父は「野球をやれ‼︎」とは言ってこない。

ただ、僕が自発的に野球をやりたいと言ってもらえる為に、こんな作戦を取ったのだ。

まずはテレビでの野球観戦。
そして休みの日にはキャッチボールをよくしてくれた。

そしてその当時大活躍していた、
松井秀喜選手を何度も何度も褒め称え、
子供心に無意識に松井選手がスーパースターである事を植え付けた。

そして満を辞して、
野球ショップへ僕を連れて行く。

そしてなんとそのお店でも高額なバットと、
松井秀喜選手モデルのグローブを買ってくれたのだ。

それはもう、野球にあまり興味が無くても、
「カッコいい!!」︎と思わせる品だった。

そんな、喜ぶ僕を見て、
父は「よし。これで野球に傾いてくれる。」
そう思っていただろう。


〜 プロになると決めた日 〜

ここで、奥田裕貴がプロサッカー選手になると心に決める重大な大会が開かれる。

2002年日韓W杯だ。

母親は、W杯を息子に見せる為に、
2枚のチケットを手に入れてくれた。

W杯とは世界3大スポーツイベントである。
会場に駆けつけた時に目にした、会場の盛り上がり、外国人サポーターも沢山いる非日常の雰囲気、そして満員で埋め尽くされるスタジアムでの白熱した試合。

それを観た時に衝撃が走り、
胸が高揚した時のことを今でも鮮明に思い出せる。

そしてこう強く思った。

「僕も絶対にプロサッカー選手になりたい!!」と。

これまでにもセレッソ大阪の試合を何度か観に行き、プロサッカー選手への憧れはあった。
しかし、この出来事が決意に変えた。

そう。その瞬間、、、
無残にも父親が買ってくれたグローブとバットは、
家の片隅に置かれ、護身用になる事が決まったのだった。笑


そして、、、このときは知らなかった。
この時に観た、プロになりたいと決心する日の写真に映る、憧れの日本代表選手と将来プロの舞台で仕事をする事になるとは、、、

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そうして、プロサッカー選手になりたい!と
心に決めたこの日から、
奥田裕貴の本気のサッカー人生が始まるのであった。

次回5年生の頃から、サッカーへ向かう姿勢、
環境も大きく変わっていく、、、

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