鳥井弘文

私たちの“はたらく”を問い続ける対話型オンラインコミュニティ「Wasei Salon」…

鳥井弘文

私たちの“はたらく”を問い続ける対話型オンラインコミュニティ「Wasei Salon」や、これからの暮らしを考えるウェブメディア「灯台もと暮らし」などを運営している、株式会社Wasei代表・鳥井弘文です。

最近の記事

古典の「価値」を思う存分に探求できる仲間がいる安心感。

(※このブログの最後に本マガジンの終了のお知らせがあります) 昨夜、Wasei Salon内で開催していた『絶対に裏切らないカラマーゾフの兄弟』という5ヶ月連続の読書会企画が、その全5回のすべてを終了しました。 このサロンの有志のメンバーのみなさんと一緒にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み終えた、5ヶ月間。 本当に尊くて、決してなにものにも代えがたい時間だったなあと思います。 今日はこの企画を終えてみたあと、今の率直な感想を書き残しておきたいなあと思います

    • 家事の役割分担の問題は、人類が1万年かけても未だに解決できていない問いである。

      昨夜、Wasei Salonの中で自炊料理家・山口ゆかさんの新刊『自分のために料理を作る 自炊からはじまる「ケア」の話』読書会が開催されました。 今日はこの読書会を通して、改めて僕が考えたことについて、このブログの中にも書き残しておきたいなあと思います。 ーーー この点、この本の内容や昨日の読書会の中で語られていたみなさんの悩みごとに限らず、「料理をつくるということ」に対して本当に多くのひとたちがいま悩んでいるんだなあと。 そして僕が客観的に、彼らの悩みを見てい

      • プレイヤーとマネージャーの関係性。タイムアウトの60秒間を提供したい。

        昨日書いた「人の成熟と社会との関係性。ズレを感じたときの知行合一」というブログに対して、サロンメンバーのまいとさんが、この話はバガボンドの「天」の概念に繋がる話ですよね、とコメントしてくれて、これが本当にとっても嬉しかったです。 僕はマンガ『バガボンド』の話は、きっと伝わらないと思ってあえて書かなかったのですが、このブログを書きながらずっと頭の中にあったのは、バガボンドの中の宮本武蔵と沢庵和尚の「天」に関する対話のシーンです。 ブログを毎日書いていると、どれだけ丁寧に言葉

        • 人の成熟と社会との関係性。ズレを感じたときの知行合一。

          最近また、何周目かの夏目漱石ブームが自分の中で来ています。 古くからWasei Salonに参加してくださっているメンバーのみなさんには「また鳥井が夏目漱石の話をし始めた」と思っている方もいるかもしれません。(これがサロンの良いところ) で、最近いくつか夏目漱石の作品を読んでいて、改めて刺さったのは『坊っちゃん』なのです。 なぜ今このタイミングで、これほどまでに夏目漱石に惹かれるのか。 今日はそんなお話から始まって一見すると夏目漱石と無関係そうな「知行合一」に関するお

        古典の「価値」を思う存分に探求できる仲間がいる安心感。

        • 家事の役割分担の問題は、人類が1万年かけても未だに解決できていない問いである。

        • プレイヤーとマネージャーの関係性。タイムアウトの60秒間を提供したい。

        • 人の成熟と社会との関係性。ズレを感じたときの知行合一。

          Voicyに対するネガティブ・フィードバックに思うこと。

          最近、なぜか突然始まったVoicyのネガティブ・フィードバック祭り。 ネガティブフィードバックの主張は、主に2点あるのかなあと思いました。 どちらも、自分自身がユーザーとして、たしかにおっしゃるとおりだなとも思いつつ、ここに来て一気に配信者側からも不満が噴出してきたのは、また別の要因があるのかもなあと思っています。 具体的には、主にインターネット上のマーケティングなどを強みとしていたビジネス界隈のひとたちが、時代の変化と共に、新規の顧客を取れなくなってきたというのはかな

          Voicyに対するネガティブ・フィードバックに思うこと。

          花咲爺さんに学ぶ、過去にこだわらないから前進できる老人の知恵。

          先日もこのブログの中でご紹介した河合隼雄さんの『おはなしの知恵』。 この本の中に、日本人なら誰もが知っているであろう「花咲爺さん」のおはなしも取り上げられていました。 この「花咲爺さん」における河合隼雄さんの考察が、とても学びの深いものだったのでこのブログでもぜひご紹介してみたいと思います。 決してかたい話ではないので、連休中における気分転換にでも読んでみてもらえると嬉しいです。 ーーー さて、河合隼雄さんは「花咲爺さんは自分の意思にこだわらないから、逆説的に、人生

          花咲爺さんに学ぶ、過去にこだわらないから前進できる老人の知恵。

          「正しい問い」を導き出すために、しっかりと時間をかけよう。

          このエイブラハム・リンカーンの名言をどこかで聞いたことがあるという方は、非常に多いと思います。 僕も学生時代に法学部に通っていたとき、教授から聞かされた記憶があり「論文のテストにおいて、まずは構成をハッキリと定める、そしてその骨格が定まったところで、一気に書き始めることが大切だ」と教わりました。 1時間の論文のテストだった場合、最初の40分で構成を練りに練り、最後の最後の20分で一気に書くこと。 このように、最初から書き始めないことの重要性を、この言葉を通じて伝えられた

          「正しい問い」を導き出すために、しっかりと時間をかけよう。

          本当の「自由」とは何か。形式的な自由に流されないために。

          最近、ひょんな事柄をきっかけに、作家の橘玲さんの「体罰教師と、熱血な道徳教師どっちが正しいのか?」という興味深い問いを思い出しました。 それがどんな話だったのかと言えば、たとえば生徒がタバコを吸ってしまった場合、現代における熱血な道徳教師は、真摯に生徒と向き合い、優しく「もうやらないよね…?」と生徒の道徳心に訴えかけようとする。 一方で、体罰教師は、生徒の顔面をひっぱたいて、体罰によってタバコを吸わないようにと仕向ける。 このような状況下において、あきらかに体罰は「悪」

          本当の「自由」とは何か。形式的な自由に流されないために。

          人はなぜ「やりたくない仕事」を正直に書き出せないのか?

          本当に自分がやりたい仕事にたどり着くためには、「自分がやりたいこと」よりも「自分が本当にやりたくないこと」のほうを正直に紙に書き出す必要がある。 この話は、本当に聞き飽きるほど、世間で広く語られているような類い話だと思います。 そして、そこで書き出された「自分のとって嫌なこと」をひとつひとつやめていくためにはどうすれば良いのか、を真剣に考えてみることがめちゃくちゃ重要だと。 あまりにもそこら中で語り尽くされてしまっていることですが、これは改めて本当に大事なことだと僕も思

          人はなぜ「やりたくない仕事」を正直に書き出せないのか?

          『おはなしの知恵』から学ぶ、真の多様性、その正体とは?

          最近、河合隼雄さんの『おはなしの知恵』という本を読み始めました。 この本、冒頭からすごくおもしろい。 ここで取り上げられている「おはなし」とはいわゆる「寓話」の類いで、僕自身なぜか寓話が好きでして、このブログの中でも喩え話として頻繁に用いています。 たとえば、「北風と太陽」や「金の斧、銀の斧」、昨日もご紹介した禅の公案なんかもそのひとつかもしれません。 もちろん、仏教やキリスト教の経典の中に含まれている物語も、ひろく「おはなし」に含まれてくるかと思います。(善きサマリ

          『おはなしの知恵』から学ぶ、真の多様性、その正体とは?

          「集中すること」だけが善なのか?「喫茶去」精神を大切に。

          「集中すること」が、いたるところで持て囃されているような時代です。 もちろんご多分にもれず、このブログの中でもビジネス書の中で異例の名著である『エッセンシャル思考』などの話題を何度かご紹介しながら、その重要性について繰り返し言及してきました。 そして、そのような時代の価値観の変遷の中で、思う存分に集中状態を獲得し、ゾーンに入って結果を出していく人たちも世の中にドンドン増えてきましたよね。 平成生まれのプロスポーツ選手たちなんかを見ていても、それは強く感じます。僕らの世代

          「集中すること」だけが善なのか?「喫茶去」精神を大切に。

          なぜ、ここ数年で「推し活」が一気に普及したのか? SNSとの意外な関係。

          日本全国どこへ行ってみても、何かしらの「推し活」の活動をしているひとたちの姿が目に付きます。 アイドルなんかに限らず、アニメやコスプレ、そして野球やサッカーなどのスポーツまで、その推しの範囲は本当に多岐にわたる。 特に、昨日や今日みたいな連休というのは、本当にすごい。いたるところで大型イベントが開催されているなあと客観的に眺めていて思います。 本当に、いまこの国の経済の大半は「推し活」でまわっているんじゃないかと思ってしまうほど。 10年前までは、ここまで「推し活」は

          なぜ、ここ数年で「推し活」が一気に普及したのか? SNSとの意外な関係。

          その土地の神に会いに行く旅は「タテの市場調査」であり、これからの豊かさを理解するため。

          連休中なので、久しぶりに旅の話を書いてみたいと思います。 僕は、旅先でその土地の「神社」に出向くのが大好きです。 そのほか神として祀られているものがある場所や、町の小さなお祭りの様子なんかを見に行くのも旅先の好きな時間の過ごし方のひとつです。 このときに宗派というのは特に関係なく、神も仏もごちゃまぜになった神仏習合してしまった「民間信仰」なんかを見に行くのも本当に大好きです。 むしろ、そのようなもはや原型をとどめていない信仰のほうが個人的には好きかもしれません。 ー

          その土地の神に会いに行く旅は「タテの市場調査」であり、これからの豊かさを理解するため。

          相手を言い負かすことはしない。「名誉ある撤退の道」をつくりだす重要性。

          現代は、相手を言い負かしたり、論破したりという状態が過度に目立つ世の中です。 それは、SNS文化が現代の世の中に生み出してしまった「闘技場」ともいえそうです。 他者をやり込めればやり込めるほど、周囲の注目が自然と集まってきて、それを眺めている観客たちから、拍手喝采を送られてしまう。 ゆえに現代は、猫も杓子も論破、論破の世界です。 でもそうやって、相手をコテンパンに叩きのめすことよりも、もっともっと大事なことがあると僕は思っています。 それは何かと言えば、意見が異なる

          相手を言い負かすことはしない。「名誉ある撤退の道」をつくりだす重要性。

          なぜ、僕らは「思想史」を学ぶ必要があるのか?

          昨夜、Wasei Salonの中で、NHK出版から出ている「宗教のきほん」シリーズの『愛の思想史』という本の読書会が開催されました。 みなさんとの読書会を通じる中で、思想史を学ぶ意味みたいなものが、やっと理解できたような気がするので、今日はそんなお話を少しだけこのブログの中でもまとめておこうかなと。 ーーー この点、僕らは、自らが生きるために何か明確な「答え」を求めてしまいがちです。 自分ひとりで考えてみても、到底その正解らしきものは見つからず、自分がどのように立ち振

          なぜ、僕らは「思想史」を学ぶ必要があるのか?

          大切に長く使い続けた人間が、一番損をするという構造に対する違和感。

          先日、毎年恒例のAppleのイベントが開催され、今年も新しいiPhoneが発表されましたね。 とはいえ、もう本当にガジェット界隈のひとたちしか話題にしなくなってしまいました。 一般的に話題になるのは、いかに円安の影響でiPhoneが年々高くなってしまったのか、その一点のみ。 新商品の機能に関しても前評判通りで、特段目立った進化もなく、今回の一番のメインの話題も「充電ケーブルがLightning端子から、USB Type-Cに変わった」という話だけでした。 その比較対象

          大切に長く使い続けた人間が、一番損をするという構造に対する違和感。