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P15_【コラム】日本の監督は演技コーチなのか問題 丨 『東京彗星』オンラインパンフレット

映画制作がどうやって進むのかを書くシリーズです。


①プリ・プロダクション
②ロケハン、オーディション、リハーサル
③撮影(のときに考えてること)
④具体的な撮影記録
⑤地獄の仮編集


までやって今日から仕上げの解説するつもりでしたが、予定を変えます。紙パンフにもよく、あいだにコラム入ってますよね。そんな感じでふと僕がずっと疑問に思っていて、答えが出ていないことを。

これって、監督としては弱みをさらすことになるのですが…まぁ、パンツ脱いでいきます。

撮影の記事で、僕は俳優とのやりとりについて "ゴールをオーダーするのか、引き出す言葉をかけるのか"みたいなことを迷い、土壇場のところは経験値の高い先輩を頼った話をしました。

これについてはけっこうずっと考えていて、ふだんの受注仕事でオーダーされる側の立場としてもいろいろ思うところがあります。

僕はふだんの仕事でも、映画制作でも、「相手が感じたことや感想は全面的に受け止めるけど、指示は慎重に扱う」ということを意識しています。

コンサルで成功した人のインタビューでよくある"患者と医者"で例えてもっとふわっと言うと、「患者の指示通りに手術はしない、患者の痛みを取るために手術する」といったことでしょうか。「ここが痛い、なおしてくれ」というのは患者が感じていることです。映像でいうと、「このへんが退屈」「このへんで置いてかれる」とかそういうことです。

感じたことは、本物です。それは受け止めないといけません。昨日の記事でも書きましたが、こんつめて作業すればするほど、初見の人の感覚とはズレるリスクがあるからです。

ただ、その先の「ここが痛いから、左小開胸を行い内胸動脈を剥離して冠動脈バイパス術をおこなってくれ」というようなことを言われたときは、注意が必要です。

そこが痛いのは事実でも、原因は別のところにあるかもしれないから
です。

そのへんを見つけ出して、適切に処置して、健康体を世に送り出すのが我々の仕事です。ふだんの仕事でも、「ここが退屈だからなんとかしてくれ」まではすんなり聞けます。そっかーすんません、改善するんでちょっとお待ち下さい!ってなります。ただ「だからここのカットはナシ、ここのカットのテイクを入れ替えて… 」的なことを言われることもあります。そういうときはまずその通りにやってみなければいけません。こういうときにこっちがふてくされてめんどくさがって、言われた通りにやったのだけを再提出すると、たとえばそれが間違った指示だったとしたらまた、「その通りにはなってるけど、これはこれでやっぱ微妙だな」ということになってしまいます。
相手が感じた感想の根本的なところを探り当てて、手術しなきゃいかんのです。

「もっとコンパクトにしてほしい」はオーダー。
「このカットとこのカットを切って、コンパクトにしてほしい」は、指示。


オーダーは気合入れて聞くけど、指示が来ると慎慎重になります。
これが、受ける側の感じ。

監督とは、いろんな人にオーダーする仕事です。自分が描いたゴールのビジョンに到達、凌駕するために、自分以外の人にお願いする仕事です。

『東京彗星』撮影の土壇場で頼った先輩の言葉で忘れられないのがあって、「カメラマンには、カメラがある。照明技師には、ライトがある。演出部には、脚本と、言葉しかないんだ」というものです。

監督って実は、自分ではなんもしないに等しいです。あらゆる分野で、自分よりできる人にお願いする。自分より撮影がうまい人に撮影してもらい、自分よりライティングがうまい人に照明をつくってもらい、自分よりいい音楽をつくれる人に音楽をつくってもらう。

とくに30代だと、まだ自分よりベテランのスタッフにお願いすることも多いです。そういうとき、僕は "指示"しないように気をつけます。「ここをこうして、こうやって、ここはなくしてください」みたいなことです。単純に逆やられたら嫌だってのもありますけど、僕の指示が、僕の描くゴールへのアプローチとして最適解とは限らないからです。

監督が責任を持つのは、完成した作品のクオリティと、観客が体験する感情です。そのゴールとビジョンを導き出し、示すのが監督だと考えます。

そのゴールを明確に示したら、そこにたどり着くために、もしくは超えるために具体的にどうするかは、だって撮影ならカメラマンの方がうまいし、音楽なら音楽家のほうがうまいんだから、任せるべきだと考えます。

このさじ加減も微妙なところで、中には「いい感じによろしく」とビジョンを示さずオーダーしといて、あがってきたものに対してあとから細かく "修正指示"を出す人もいます。僕もそんな感じのことしてしまったことあります、たぶん。これ、最悪です(そもそも"修正"って何。間違ってたみたいじゃん。だから僕は自分からは"修正"という言葉は使いません。"更新"という言葉を使います。間違ってたのを正したんじゃなくて、よりよくするためにアップデートした、と考えます。オーダーするときも、されるときも)。

具体的にできたものにあとから言うのって、ぶっちゃけ誰でもできます。全人類ができることです。訓練された職能じゃないです。その、あとで好き放題言うベースになる具体的なものをつくるのは、特殊な職能です。時間も手間もかかります。たくさんパターンをつくらせて、その中から選ぶなんてやり方なら、誰でもできます。(実はその中から優れたものを選ぶってのは大変なセンスが必要なので、ぜんぜん誰でもできることとは言えないのですが)。

目指すところを明確にしてオーダーして、それを受け止めて相手がつくってくれたものを、よりよくするために"更新"していく。具体的なものをつくる前にビジョンを描き、正確にオーダーできるのか。受けた側が「あ、そこを目指してるのね。だったら例えば…」と動けるような明確なゴールを設定できて、説明できるのか。そこが監督の仕事なんじゃないかと。僕は思うのです。(映像業界から「何をいまさら」という声が聞こえますね)

ただ。

こと"演技"に関しては、なんだかどうも、日本では、「オーダーしてるだけじゃダメ」みたいな感じをなんとなーく感じるのです。"引き出す言葉問題"です。

「このシーンの目的はこれだから、こういう印象をつくりたい。いまのテイクの演技はこういう印象になっていると思ったので、次はそれをこういうふうに見えるようにしたい」こういうオーダーは、僕もできます。そりゃ監督ですから。そこを死ぬほど考えて撮影にのぞんでます。

でもなんか、それじゃだめっぽい空気を感じることがあります。「大事な人が死んでしまったことを想像して!」とか、そういう "指示"です。そういのに憧れて、というか、そういうのが監督が言う言葉だと思い込んで、なんかそういう指示をしてしまっていた時期が僕にもありました。でもなんか、きょとんとされることが多かった。的外れだったんでしょう。なにより僕がそういう指示をすること自体が目的になっていて、オーダーとして適切じゃなかったんだと思います。

完成後の作品に関する俳優へのインタビューで「監督がすごい引き出してくれて」みたいな話を聞きますが、これがほんとにいまだにわからない。つか、すごいなそういう監督。て思っちゃいます。引き出すって、なに!?「お前は本気で誰かを想ったことがないんだろ」ってツメたり、灰皿投げたりすることなのか?みんなどうやってるんだろう?ゴールを設定してオーダーしたら、そこに到達する手段はその人がやってくれるもんじゃ、ないの…?いや、だって、カメラマンは監督より撮影うまいから撮影してるわけで。俳優は監督より演技がうまいから演技してるんじゃ、ないの…?

この "引き出す"ということの意味への疑問を、またよくあるオーケストラの例で話すと。

脚本家は、作曲者。演奏にかからわずどういう楽器でどういうメロディをやるのかを設定する人です。

監督は、指揮者です。それぞれの楽器のプロの演奏者たちにオーダーして、演奏全体の完成度と仕上がりに責任を持つ人です。

各セクションのスタッフは、それぞれの楽器の演奏者です。全員、指揮者よりその楽器の演奏がうまいはずです。

楽器演奏者に対して「ここの何小節だけど、いまこうなってたんだけど、全体がこうだから、こういうふうにしたいから、そうなるようにやってください」とオーダーするのは、指揮者(監督)の仕事だと思います。

僕がひっかかってる "引き出す言葉"というのは、指揮者が楽器演奏者に楽器の弾き方、吹き方を手取り足取り指示することに近い。演技においてはなんなら、その場で吹いてみせたり、弾いて見せたり。

それってその楽器専門のコーチの仕事じゃないの…?という感じ。

「おれ、演奏全体をつくるのが仕事であって、その楽器の吹き方を教えるプロじゃないんだけどな…」と思うことが、あります。日本では演技という、楽器の吹き方を教えることが、監督に求められる職能である、という感じがします。え、やっぱりそうなんですか?そうなんですね。すいません。でも僕ら、演技のプロですか?演技を教えるプロなんでしょうか?カメラマンに「フォーカスリングをこうやってまわして…」って言うみたいなこと、してませんか?と思うのです。

ここでもうひとつ思い出した言葉があります。

さきほどの言葉と同じ大先輩の言葉です。「俳優業には、助手がない」。撮影部は、撮影助手がいます。助手時代があります。ガチで責任をとるんではなく、サポートしながら勉強する。訓練になる。そうやっていろんな要素を訓練したうえで、責任をとるカメラマンというポジションになる。各部署すべてそうです。みんなだいたい、アシスタント時代を経ています。

しかし、俳優業はどうでしょう。俳優の助手ってなんでしょうか。先輩について演技をみること?みることはできます。しかし助けることはできません。そしてスター性があれば、俳優は経験が少なくても矢面に立たされます。初演技の人と、芸歴40年のベテランが、同じ画面内で等しい責任を追います。大先輩の言葉は、「だからリスペクトしなければならない」と続きます。どんなに若い、経験が浅い俳優でも、先輩の影に隠れて、自分が責任を負わなくていい、助手ではありません。その役の責任は、その人がおうのです。たしかに。すごい。俳優すごい。

でも、だからかもしれません。

ハリウッド映画のパンフレットを読むとみーんな経歴に、 "卒業後、○○学院で演技を学ぶ"と書いてあるのが不思議でした。日本の俳優の経歴は "13歳のとき原宿駅でスカウトされ、『○○』でデビュー"みたいなのも多いです。

これは僕もちゃんと調べてなくて、聞いた話読んだ話の総合なのですが…
日本では体系的に演技を技術として習得してからデビューするという習慣がない。のかも。もちろん、演技レッスンとかみんなちゃんとやってるんでしょうけど。なんとなく、「演技が技術として、撮影などの技術部のようにロジックとゴールオーダーで共有できるように体系化されていない」んじゃないか。

そして、「経験が浅いまま現場に放り出されて責任を負わされる俳優も多いから、結果的に監督が現場で、本番で、演技コーチをしないと作品が完成しない」、ってことが多いんじゃないか。だから結果的に、監督に演技コーチの役割を求められることが多いのではないか。

もし、ですよ。日本でも演技というものが、訓練して身につけた人だけが披露できる体系化された技術として定着していたら。「大事な人が死んだと思ってみろ」とか灰皿を投げたりとか、そういうやりとりじゃないやり方が主流になっていたんじゃないか。



ジョン・バダムの本『監督のリーダーシップ術 5つのミステイクと5つの戦略』(フィルムアート社)を読むと、参考になりそうな話が。

この本の中で、『オーシャンズ11』などの監督スティーブン・ソダーバーグは言います。

「何を考えるべきか、俳優に言っちゃだめですよ。何をすべきかを言うこと。(中略)『この人物は、学校でこういう授業をとっているようなやつ』と説明するよりは、『スポーツマンのように歩かないでくれ。今の歩き方は体育会系。(中略)違う歩き方をしてみて』と言う方がいいです」

女優で監督もするジョディ・フォスターは言います。

「ただ、何が必要かだけ伝えてくれれば結構です。私の演技の方向性が違っても、抽象的な話で遠回しに誘導しないでくださいね。考えを言っていただければ、感情面は私の方で作ります。」

頼もしい。この感じが僕の中での前提なのですが、日本の映画全体でみるとどうなんでしょうか。そうなのか、違うのか。持論をお持ちの先輩監督がいらっしゃったら、お知恵を借りたいです。

あ、『東京彗星』に出てくれた俳優のみなさんはみんなスーパー的確でした。僕のオーダーに対してバッチリ答えてくれました。先輩を頼った瞬間は、監督の僕の技量の問題でした。現場に飛び交う熱量が僕の力量と脳のキャパシティを超えた瞬間、僕は自分がオーダーする言葉を信じるのを辞め、自分がオーダーして正確に返される答えよりも良いものがほしくなり、自分より経験値のある先輩の力を借りたという感じです。誤解なきように。


そんな試行錯誤の果てに完成した『東京彗星』は…

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また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。