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「共感資本社会」で見つけた新しい“幸福論”

ある女子高校生からの宿題

 2019年8月、僕は「全国高校生サミット」に講師として呼ばれ、1時間半話をした。その後の質疑応答で、ある女子高校生からこう問われた。

「人生100年時代がやってくるっておとなたちは言うけど、高橋さんは10代の自殺者の数、知ってますか? まずは、若者たちが絶望して死にたくなる社会を変えるほうが先なんじゃないですか?」

 彼女の表情は厳しかった。僕も同じ問題意識を持っていたけれど、こうして当事者である18歳の高校生から面と向かって問われると、その言葉はずしりと心にのしかかった。そして、なんだかおとな代表として責められている気持ちになった。僕は彼女に言った。

「気持ちはわかる。でも、おとなのせいにして文句を言っているだけじゃ何も変わらない。君もまさにその当事者として、そんな若者たちが死にたくなる社会を変える側に回ってほしい」

 そして、最後にある約束をした。

「これは、日本がどこかに置き忘れてきてしまった〝幸せとは何か〞という重い宿題だと思う。是非、一緒に考えてほしい。僕も考える。そして、僕なりの答えを社会に示したいと思う」

共感資本社会を生きる

 新井和宏さんと昨年(2018年)に出会ってから、顔を合わせる度に必ず話していたのは、まさに「幸せとは何か?」だった。
 そして、その鍵を握るのは「お金」だろう、とも。いまの日本は、人間がお金の奴隷になってしまっている。
 まるでお金のために生きているようで、目指していたはずの幸せからどんどん遠ざかっている。お金に縛られない自由な生き方こそが、人間にとって本当に幸せな生き方なんじゃないだろうか。

 こんな具合にいつも意気投合しながら、〝目指す社会〞や〝新しい生き方〞について語り合った。そのときのキーワードが、『共感資本社会を生きる』を通して新井さんと議論してきた「共感」であり、「共感資本社会」である。

 そのふたりの共振を見抜き、対談本をつくらないかとダイヤモンド社の廣畑達也さんから持ちかけられたとき、僕の頭をよぎったのはあの女子高生との約束だった。
 『共感資本社会を生きる』は、彼女から投げかけられた問いへの僕なりの解答でもある。

アフリカにあって日本にないもの

 文部科学省が発表した2018年度の小中高生の自殺者数は過去最多で、この30年間増加の一途にある。

 このことを、8月に横浜で開催された第7回アフリカ開発会議(TICAD7)で講演させてもらった際、僕は日本が抱える深刻な問題として取り上げた。

 すると、講演後、貧困問題に長年取り組んでいるというアフリカ人がやってきて、興奮気味に語りかけてきた。

「衝撃を受けた。アフリカではまだまだ生きたくても、食べ物がなくて餓死する子どもがたくさんいる。日本ではこんなに食べ物があふれているのになぜ子どもが自殺するのか。信じられない」

 また、僕の後に講演したアフリカ開発銀行総裁はこう訴えた。

「アフリカはまだまだ貧しい。悲しいことも、苦しいことも、つらいこともたくさんある。それでも、アフリカの人々は目の前の1日を笑顔で楽しく生きている。アフリカは幸福を世界に輸出できる」

 なるほど、アフリカでは生と死が隣り合わせということもあり、生きていること自体に感謝できるのだろう。今日1日を生きること、たとえば仲間と会話することだったり、家族と食事することだったりの当たり前の日常に幸せを感じることができる。他者との交歓や自然との交感によって、いまある自分の「生」を直接に充溢させていく。

 一方、日本では、未来に置かれた目的のために、いまある自分の「生」を手段にする、つまり生きるリアリティの根拠を先送りするような生き方が礼賛されてきた。
 子どもの世界で言えば、それは幼少期からの受験競争である。衣食住が満ち足り、これだけ物質的に豊かになった世の中で、引き続きそんなふうに生きることが求められている子どもや若者は、明らかに生きそびれているように見える。いまある自分の「生」そのものに生きるリアリティの根拠を求めたいのに、それを求めること自体が許されない社会は、彼ら彼女らにとってはもはや絶望でしかないだろう。

 人間は本来、いましか生きられない。過去は終わっているし、未来はまだ始まっていない。だから、いまある自分の「生」を直接に充溢させていく先にこそ、人間の幸せがあるのだ。

 しかし、なぜだろう。日本でこの幸福論を持ち出すと、だいたい決まって言われることがある。おまえは牧歌的だな、と。

幸福度指標が県政のど真ん中に

 いまから12年前の2007年、当時、岩手県議会議員だった僕は6月定例県議会の一般質問に登壇し、県政運営に「幸福度指標」を導入するように知事に求めた。その質問に対し、先輩議員たちから飛んできたヤジも「何を牧歌的なこと言ってるんだ!」であった。
 高度経済成長期が終わった後の「波しぶき」のようなものなのだろうか。県議会に限らずどこでも、幸福の議論をすると、たいていこういう反応が返ってくるのだった。

 経済は豊かになった。しかし多くの人が首を傾げて生きている。これが豊かな社会なのか、幸せな人生なのかと。そして決まってこういう結論に到達するーーまだ経済の豊かさが足りないからだ、だからもっと経済をがんばろう、と。日本はそれを空念仏のように唱えつづけてきた。

 しかし、ここ数年、風向きが少しずつ変わってきていると感じる。

 その変化を感じるきっかけとなる出来事があった。元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ氏が4年前に来日したとき、フジテレビの番組のインタビューに応じた。いまの日本社会をどう思うかと問われ、ムヒカ氏は穏やかな表情で答えた。

「幸せとは物を買うことだと勘違いしている。幸せは人間のように命あるものからしかもらえないんだ。物は幸せにしてくれない。
私はシンプルなんだよ。無駄遣いしたりいろんな物を買い込むのは好きじゃないんだ。そのほうが時間が残せると思うから。もっと自由だからだよ。
なぜ自由か? あまり消費しないことで大量に購入した物の支払いに追われ、必死に仕事をする必要がないからさ」

 このインタビューの一部始終をスマホで撮影していたある人がFacebookに投稿したところ、なんと8万6000人が「いいね!」を押し、4万8000人がシェアをした。有名人でもなければ大量のフォロワーがいたわけでもない。そんな〝一般人〞が、レディー・ガガもびっくりの驚異的な数字を叩き出したのである。それだけ多くの日本人が共感したのだ。

 そして今年2019年の春、東北の知人から河北新報のデジタル記事が送られてきた。12年前に岩手県議会で、ある議員が提案した幸福度指標を、岩手県がこの先の10年のビジョンを示す新総合計画の柱に据えることを決めた、という内容だった。
 あのとき僕の質問をはぐらかした知事も、「幸福を守り育てる県政」を全面に押し出すと意気込んでいるらしい。

 僕の岩手県議会への置き土産である、あの牧歌的だとヤジられた幸福議論が県政のど真ん中に座ったのだ。

 多くの人はもう気づきはじめている。
 いまのままではいけないと。
 でも、どう行動していいのかわからない。
 だから、一歩が踏み出せない。
 そして、日常に流されつづける。
 そんな人たちの背中を押すことができれば幸せである。

ポケットマルシェ代表取締役 高橋博之

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