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HIROBA編集版 「阿久悠をめぐる対話を終えて」(全8回) 第6回「その歌づくりに他者はいるか」 対談5:いしわたり淳治さん

2019.08.11

第6回「その歌づくりに他者はいるか」
対談5:いしわたり淳治さん

僕が思春期を迎えた頃、ヒットチャートを賑わせていたビックアーティストたち(その多くがいまだ現役です)は、ほとんどにおいて自作自演の方々でした。

作詞家、作曲家、編曲家、歌い手、それぞれの分業がはっきりとしていた時代はとうの昔。シンガーソングライターにせよバンドにせよ、自分の言葉を自分で届けることは当然のことで、そうであることにこそアーティストとしての価値が見出される。

自作自演というスタイルが、極端に言えば絶対視されるような空気が、少なからずあったように思います。

水野が籍を置くいきものがかりは、その成り立ちが偶然であったにせよ、主に水野と山下、二人の男子メンバーがそれぞれに楽曲(歌詞も、曲も)をつくり、それを吉岡が歌うというスタイルが基本となっています。作り手と届け手が異なる、いわばグループ内分業のかたちです。それがあまり他にないスタイルだというのは、デビューしてから気づいたと言ってもいいくらい、時間が経ってからのこと。

「これは昔の歌謡曲と同じスタイルなのかもしれない」

作家と歌い手が異なることが一般的な歌謡曲のスタイルに、改めて目を向けるきっかけとなったのは、自分たちの在りかたそのものでした。

阿久悠を追いかけるにあたり、僕と同じくらい阿久さんと歳が離れていて、なおかつ現在のミュージックシーンの最前線で活躍している書き手。そんな誰かにも話を聞いて、ともに阿久さんについて考えたい。そう思っていました。

そこで浮かんできたのが、作詞家のいしわたり淳治さんでした。

シンガーソングライター全盛。自作自演全盛。

そこまで言うと多少の誇張になってしまうのかもしれませんが、少なくともそれが主流であることは疑いないなかで、「作詞家」としてトップランナーであり続ける、いしわたりさんはまさに稀有な存在です。

歌詞とは「感情をしまう棚」。彼が音楽番組などで口にしたそんな言い回しに、僕は強い共感を覚えていました。
ともすればメッセージソングなどと題しながら、自己表現、自己表出で完結してしまう、ただ吐き出したことだけで終わってしまう、ひとりよがりな歌詞が多い中で、その「棚」という表現は聞き手からの視点を明確に意識しています。

歌とは、聴いた人が主体となり、感情を寄せるものでもあります。聴き手が抱くさまざまな感情を、そこにしまいこむことができる感情の棚。歌をつむぐときに、他者(聞き手)の視点があることを意識しているか、意識していないか。

その歌づくりに、他者はいるのか。

これはとても大きな分岐点です。阿久悠の歌づくりには他者がいたと、僕は思います。個人の主義主張、自我のようなものが、色濃く反映されているように感じられるその歌たちは一方で、必ず他者に開かれていました。自己表現だけが礼賛される空気のなかで、聴き手への意識をたしかに胸に置くいしわたりさんに、阿久さんの歌詞について伺いました。

「上野発の夜行列車降りた時から…ここで、もう映像が浮かびますよね」

あまりに有名すぎる「津軽海峡・冬景色」の冒頭の一節。たった二行で東京から青森まで数百キロを越えるこの歌詞は、映像的だと言われる阿久悠の歌詞のなかでも、とくにその描写の見事さにおいて取り上げられることの多い名作中の名作です。

映像的であること。これを指摘することはある種、当然なことではありますが、いしわたりさんはそこから一歩踏み込んで、映像的であるからこそもたらさられる魅力について語ってくださいました。

「聴き手の、参加意識が加わるんですよね。」

映像的であることで、かえって聴き手にその場面を自由に、かつ能動的に想像させ、聴き手の想像力によってこそ、歌詞がより深い奥行きを獲得していく。

ピンク・レディーの一連の作品群を、聴くひとがひとつのテーマパークをまわったかのように感じさせたいと表現していた阿久悠の言葉と、いしわたりさんの言葉はつながるように思いました。

「そしてそれ(=聴き手の想像)さえも、コントロールしている。言葉としての最高のかたち」

しびれるような洞察でした。

少し話がずれますが、僕は表現について考えるとき、よく落語の名演を思い浮かべます。

噺家が演目のなかで、蕎麦を食べるシーンを演じます。実によくあるシーンです。小道具は扇子くらいのもので、もちろんそこにお椀があるわけではなく、噺家の両腕と、顔の表情と、蕎麦をすする音を真似た口ぶり、それらだけで蕎麦を美味しく食べるシーンを表現します。

名人と呼ばれるひとのそれは、あたかもそこにお椀があるかのようで、実に美味しそうに見えます。しかし当然ながらお椀は実在しません。そのお椀はどこにあるかといえば、落語を鑑賞する人々の頭のなか、つまりは想像のなかです。

噺家の技術の如何によって、聴き手がお椀を想像しやすい噺と、聴き手がお椀を想像しにくい噺があります。聴き手の主体的な想像でさえ、噺家の腕にかかっているのです。あるいは、噺家の腕によって、想像“させられている”。歌も、そうなのかもしれません。

メッセージを、マジックを使って太字で書くような歌よりも、阿久悠がつくる漠然とした恋の歌の方が、ときに社会や文化に、人々の価値観に、強い影響を与えることがあります。

それは聴き手の主体的で、能動的な想像を引き出し、なおかつそれに、無意識のレベルまで彼の歌が働きかけるからではないでしょうか。

阿久悠が記した「作詞家憲法」の第5条にはこんな一文があります。

「個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。」

たとえば、「また逢う日まで」は、まさにこの第5条につながる歌と言えるでしょう。

歌とは、本来そんなかたちで、社会へ、人々へ、影響を与えうるものなのかもしれません。

それは坂本九の「上を向いて歩こう」のあり方であり、僕らが子供の頃から慣れ親しんだ、いくつもの童謡のあり方であると言えます。そしてそれは僕が歌をつくる際に、拠り所にしている考え方であり、シンプルなメッセージソングだけを礼賛する風潮への、対決姿勢でもあります。

※この連載は、ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ2017年9月23日放送)の出演を経て、水野が2017年10月にまとめたエッセイの再掲載です。一部、記述が2017年当時の状況に沿ったものとなっておりますことを、予めご了承ください。

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