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松井五郎さんにきく、歌のこと 6通目の手紙 「契機となった“決定的な作品”」 水野良樹→松井五郎

松井五郎様

時代の変化のなかを松井さんがどのように歩んでこられたのか。
頂いた返信につづられた数十年の音楽シーンの変遷はさながら絵巻物のようでした。次々に現れる音楽界の登場人物たちや巻き起こる社会状況の変化を落ち着いた筆致で紹介していきながら、それでいて、ただの歴史記述にならないのは松井さんご自身が書き手として、当事者のひとりとして、そのただなかに身を置いていたからに他ならないと思います。
 松井さんがおっしゃる「混沌」を、前後左右の認識もままならない大海原を、自分で軸を打ち立て泳ぎ切ってきたことの静かな凄みが、滲み出ているような気がしました。

 ひるがえって自分はどんな風景のなかで音楽を聴いて、生活をして、そして育ってきたのだろうと、過去を思い浮かべて、今日はそんなところからお話を始めたいと思います。

 僕は82年生まれ。和暦にすると昭和57年の生まれです。物心がついて、まわりの大人たちから教えられる歌をたどたどしく口ずさみ始めた頃というのは80年代後半くらいにあたります。80年代はその後中学生のときに夢中になる玉置浩二さんにまつわる作品群(つまり当然ながら、松井さんが書かれた作品たちが多く含まれています)がまさしく世の中に届いていった時期ですが、それらについて自分がちゃんと出会うのはまだ先のことです。当時、幼少だった僕は“世の中”というような大きなシーンを認識できるわけもなく、親が聴いているもの、親戚のお姉ちゃんたちが聴いているもの、アラスカのおばちゃんが教えてくれるもの、それらを抵抗もなく、彼女たちの真似をして口ずさんでいました。

 唐突に“アラスカのおばちゃん”という言葉が出てきましたが、実は母の従姉妹が米国の男性と国際結婚をしたひとで、アラスカのアンカレッジに住んでいました。その当時でもすでに年配でしたが、彼女はとても明るく、洒脱で素敵なひとで、たまに日本に遊びに帰ってきては当時は貴重だったディズニーのアニメーションビデオや、マイケル・ジャクソンの映像ビデオなどを僕にくれたりしました。年表的な話に戻れば80年代のなかばくらいですからマイケル・ジャクソンの「Thriller」「Bad」のあたりです。彼の全盛期のひとつですね。

子供ながらにあのダンスを真似しまして、それをみた大人たちが喜んで褒めてくれるものですから得意げになってやっていたのだと思います。自分にとって音楽の原点はどこ?と聞かれたら、突き詰めるとあのマイケル・ジャクソンのビデオなんじゃないかなと思ったりもします。

 とにかく褒められることが嬉しかった。それは幼心にも記憶に残っています。同じように当時高校生だった親戚のお姉さんたちから光GENJIとチェッカーズの歌を教えこまれて、これもまた歌いながら真似をして踊るのですが、踊ると、大人たちが褒めてくれる。
 5歳か6歳くらいの子どもが踊れば、そりゃどんな子だってかわいいでしょうから、今から考えれば当たり前なんですが、この「ほめられた」という経験が、その後、思春期を迎えても、自分が音楽に触れるうえでの大事な軸になっていったと思います。自分の存在を認めてもらいたいという欲求が、自分は一貫して強かったのだと思います。

 小学生高学年くらいが90年代前半です。ついに世の中はCDバブルというものに入っていきます。クラスメートとの会話のなかに音楽の話が出始めるのが、この頃です。
 ひょんなことから気が合う音楽好きの友達をみつけていく…という話ではありません。普通のクラスメートの、普通の日常の会話に「○○のCDを持っている」「○○の曲を知っている」というやりとりが生まれていきます。ちょうど僕らはドラゴンボール世代ですが「今週のドラゴンボール読んだ?」という会話と同じようなレベルに、そういう話題が連なっていくようなイメージです。中学生くらいになると、よりそれが顕著になっていきます。

「ミュージックステーション」「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」「CDTV」「うたばん」「ポップジャム」…などなど、音楽番組が1週間のあいだにいくつもあって、それほど音楽に強い興味がなくても“共通の話題”としてそれらをみんなが見ていて、見ていないとクラスの話題についていけない。
 端的に言えば、コミュニケーションツールのひとつとして音楽の話題があったように思います。それはそれだけ広義の音楽シーンというものが、あのとき、十代の若者たちの日常に深く取り込まれていたからだと思います。どのようなエンタメも趣味的な存在としての要素をもっていますが(ジャンルごとにはもちろん深く密度の濃いファン層があったはずですが)、あの頃の J-POPシーンというのはあまりにも若者社会のなかで一般化されていました。

 〇〇というアーティストを聴く女の子は、こんなタイプのひとたち。〇〇というバンドを聴いている男の子は、こんなタイプのひとたち。それぞれが聴くアーティストや音楽のジャンルがある種のアイコンとなって、クラス内や、学校内での“キャラクターづけ”の一要因にさえなっていたように思います。もちろんそれ以前の時代にも、それ以後の時代にも、そのような現象は大小の差はあれ、あったと思いますが、当時のスクールカースト的なものとも密接に関わって、どんなアーティストの音楽を好きでいるかが、十代の若者たちが自己像をカスタマイズするうえで、非常にわかりやすいアイコンとして機能していました。

 突飛な話のように聞こえるかもしれませんが、現在をみたとき、あの頃のJ-POPを代替するものがSNSになったのではないかとさえ思います。それくらい、コミュニケーションにおいて機能を果たすものだったのではないかと、今振り返ると思います。

 そういったかたちで音楽を受容していた当時の普通の若者(僕もその十代の若者でした笑)のなかで、自分も同じように、話題についていけるように音楽番組を見ていましたし、CDを買って(もしくはレンタルして)いました。そのなかで、当然、一部の子たちはクラスメートの話題に出るものよりも、さらに一歩踏み込んで自分の趣味性を伸ばしていきます。それは前述のキャラクターづけの延長であった子もいれば(普通ではないものを聞いている、自分は個性があるのだというキャラクターづけ)、本質的に音楽が好きで、CDバブルのようなムーブメントがたとえ訪れていなくても音楽にのめりこんでいったであろう資質を持っていた子もいました。そのどちらの要素も持っている子も大勢いたでしょう。

 自分はどうだったのか。本当に音楽が好きだったのか、突き詰めて考えると正直よくわかりません。誰かとコミュニケーションをとるために聞いていた部分もあるでしょう。中学生から高校生にかけての自分は、どこかコミュニケーション不全のようになっていた時期なので、コミュニケーションへの憧れと、それとは真逆の忌避感とが、ごちゃまぜになっていた状態でした。好きな音楽を聴かせあって、特別な友情を深め合うような、青春時代のコミュニケーションのカタルシスみたいなものは、あまり経験することはできませんでした。そういった集団にいつも入れなくて、疎外されていたという感覚のほうが個人的には強かったのを覚えています。

 そのなかであくまで自分と対話するという目的で聴いていたのが中学時代にのめりこんだ玉置浩二さんであり、安全地帯であり、Bonnie Pinkさんの音楽だったように思います。野球部の練習を終えて自宅に帰ると、自室にこもり、アコースティックギターをベットで抱えて、何時間でも歌っていました。本当に何時間でも。しかし、それらの音楽をクラスメートと共有するようなことはほとんどありませんでした。

玉置さんにしても当時、ドラマに出られていて、10代のクラスメートたちにもその存在が十分に身近なものとして捉えられていましたが、玉置さんが肩先のとがったスーツに身をつつみ、アイラインをひいて妖艶な歌を歌っていた過去をクラスメートたちは知りませんでした。ましてや玉置さんの初期のソロ作品の内省的なトーンを彼らは知らず、共有されるのはドラマで演じられていた素朴で優しい男性のイメージでした。

 玉置さんのソロ作品に内省的な楽曲は多くありますが、とくにアルバム『カリント工場の煙突の上に』などを、自分は中学生時代の抑うつとした感情をそのままぶつけながら向き合って聴いていました。目の前の音楽を、この感情で聴いているのは世界でぼくひとりなのだ、といったような感覚になっていた瞬間はあったと思います。音楽と聴き手とのあいだに唯一無二の、特別なつながりが生まれることが、僕は音楽が”名曲”と呼ばれるようになる瞬間だと思っているところがあるのですが、当時の中学生の僕は、聴き手としてそういう瞬間を何度も経験していたように思います。

(この「青い”なす”畑」などは、今読むとなぜ自分とリンクしたのかわかりませんが、中学生のときは、そのときに感じてた孤独感とあまりにも合致してしまって大切にしていた曲でした。)


 一方で、同時に、自分がつくった音楽が、対人関係を劇的に改善させるということも何度か経験しました。高校生のときに初めて真剣につくった楽曲が校内放送で流れ、1日にして校内の話題となり、いままで全く振り向かれることのなかった自分の存在に、一気にみんなの注意が向かうといった経験は、16、7歳の少年にとっては衝撃的なものでした。
 コミュニケーションの海でうまく泳げず溺れていた僕が、唯一つかんだ藁が、音楽だったと言ってもいいかもしれません。だから僕の場合は、音楽をつくるという行為は常にひとを振り向かせるためのものとしてあって、それがこれほど強くポップスを志向することにつながっているのだと思います。

 言い方が正しいかわかりませんが、コミュニケーションをある種、暴力的に獲得できるのが僕にとって音楽でした。今まで自分の存在などなかったものとされていると思っていたのに、曲をつくったら全員が振り返った。なにか、世の中をなぎ倒すような感覚というか…。

 自分たちがとった路上ライブというスタイルも、どこか牧歌的なイメージがありますが、やっていることは情け容赦ないシビアな戦いであったりもします。それぞれの目的を持って道を歩いているひとたちの足を止め、無理やりこちらに振り向かせるのですから。それは暴力的なポップさがないと成立しないものです。


 学校内ではクラスの誰とも話さないで1年間過ごしてしまうような人間だった僕が、路上ライブというフィールドでは、見知らぬ他校の学生や、普通の生活をしていたら絶対に接触しないであろう夜の街のひとびとであったりとのコミュニケーションを獲得していく。道端で歌って、出会いに恵まれていく。思春期の少年にとっては”武器”という言葉があてはまるものだったのだろうと思います。

 自分でも語りながら”業”を感じるなと思いますが、思春期の自分にとって音楽というのはコミュニケーション不全を象徴するものでもあり、コミュニケーションを獲得する武器でもあり、なにか愛憎渦巻くような存在であった気がします。

 うまく表現できませんが、このときの名残りなのか、いまだに、関わったミュージシャンなどにまっすぐな瞳で「音楽が好きなんです」と言われてしまうと、どうも消化できない思いが自分のなかに芽生えるときがあります。音楽に関わるひとたちは、音楽への純粋な肯定感を持っていることを、ひたすら歓迎するところがあって、むしろその気持ちでこそ信頼を勝ち得るようなところがあるように感じているのですが、自分は、いつも音楽に対して、なにか一言では言い表せない複雑な感情を持っているので、短絡的に好きとも言えず、困惑してしまうときがあるのです。青臭いようですが、でもこの複雑さが、自分を音楽に向き合わせているような気もしていて、それはそのままでいいのではないかとも思っています。

 また少し、自分語りが長くなってしまいました。ただ十代のときの、あの実家の部屋でアコギを抱えて過ごした時間を思い出すと、そこには何か今の自分に対するヒントのようなものが隠されているような気もして、振り返る時間そのものがちょっと愛おしく思えました。ありがとうございました。

 頂いた問いに、問いで返すようになってしまって恐縮です。
松井さんにとって”決定的な作品”、その作品と出会ったこと(もしくはご自身が作り出したこと)によって大きな変化が自分のなかで生まれた作品というのはあるのでしょうか。書き手にとっての契機というのは、ドラマティックに起こるものだけではなく、いつも小さく起こり続け、その変化の積み重ねが書き手を変えていくのだということは自分も少ない経験上でなんとなく理解しているのですが、それでもあえて選ぶとしたら、どのような作品がありますでしょうか。


水野良樹

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