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『文章と言葉と』 〜文豪と〜

レースのカーテンの向こう側、光量が少し落ちたと思っていたら、ピタッピチャッ、と雨が降り出す合図が聞こえた。
数分後には斜め上の方で、ゴォゴゴォ、という雷鳴が駆け抜けた。
外はそんな状況の日曜の午後、ベッドに寝転びスマホのKindleアプリで本を読んでいる。眠気に耐えながら。

このnoteは言葉や文章についての自身の考えや調べたこと、感じたことを書きたいときに書いていこうと思ってはじめたので、けっこう好き勝手に書いている。
なので、完全に不定期更新。

行列のできるラーメン屋さんなどでスープがなくなったら閉店、という営業システムがあるけど、そんなきちんとしたものではなく、今日はスープを作りたくないからそもそも開店しない。それくらいのスタンスでやっていきたいものだなあ、と思っている。
ノッてしまい、連日書いたっていい。
あとは実験の場としても使おうと思っているので、今日は少し文体を変えて。

上述のとおり眠気に耐えていたものの、雨や雷の音で少し通常モードになりはじめたので、また何か書こうと思いPCを開いた。

「そもそもおまえ誰やねん!?」

という状態でのスタートは、変に色々と意識することがないからとても良い。
何か書きたいと思っている人がいるならチャンスですよ。書く場所はいくらでもあるので。

ただ、この状態がとても良いとは思いつつも、その瞬間に言いたいこと(思いつき)をわざわざ長文にするほどのエネルギーはないし、感情を千切って投げたいだけならtwitterで十分。

せっかく文章を書くのであれば、あとから自分が読み返したときに納得度が高かったり、復習の要素を含んだものにしたい。プラスαで読んでくれる人の役に立つならなおさら良い。
そういう経緯もあり、言葉や文章にまつわる何かであれば、仕事もプライベートも関係なく楽しいと思えるし、多少は誰かの役にも立つかもしれないのでは?
そんなことを考えて書いている。

さっき、芥川龍之介の『文章と言葉と』を読んだ。この本は「文章」と「言葉」、それぞれに対しての芥川の随筆で、彼がどのように文章と言葉に向き合っていたのかが少しだけわかる内容となっている。

その中で、文章について以下のように書いている。

文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は只それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多にすらすら行つたことはない。
〜中略〜
つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。

「はつきり」というのは、これ以上ないレベルの解像度で、可能な限り自分の頭の中にあるものを言語化して、文章という形にしたいということだろう。
そして、滅多にすらすらとペンが走ることはない、とも言っている。

アポロ主義について調べると、「主知的傾向をもち、静的で秩序や調和ある統一を目ざすさま。」とある。
芥川は自身の文章に対する考え(心構え)として、感情や意志といった情緒的なものよりも、知性や理性に重きを置いた上で、静的で秩序や調和のある統一を目ざしていたということか。

一見すると創造性が狭められそうにも見えるが、おそろしく高いハードルを目の前に置いて、それを飛び越えるためにあれやこれやと思考を巡らし続ける。ペンを何度も宙に走らせながら、頭の中にある物語を、常人には持ち得ない高解像度の言語感覚を駆使して、文章にしてきたのだろう。

もう一方で、言葉についてはこんなことを書いている。

五十年前の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵髪をみづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の青年は大抵長ながと顋髯(あごひげ)をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷してゐる。

芥川は100年近く前に亡くなっているが、ひとつの言葉が時代の移り変わりによって別のイメージを想起させる、人により同じ言葉を聞いても思い浮かべるものが違う、ということに気づいていたわけで、洞察力の鋭さが異常かもしれない。
現代のようにネットで簡単に検索できるわけでもなく、誰かにちょっとSNSで聞いてみるなんてこともできない時代に。思考の幅が広く、深く、それでいて視座が高い、と見るべきか。
なんだか昨日の「寒天」の記事が、とてもかわいく思えてくる。

文豪と呼ばれる芥川龍之介ですら、いや、文豪ゆえにか、文章を書くことには苦心していたようなので、何かを悩みながら書くのは当たり前、というくらいの気持ちで、これからも言葉と文章に触れ合っていきたい。

書きたいことを書きたいように。楽しんで。

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