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性悪説VS性善説【連載】人を右と左に分ける3つの価値観 ―進化心理学からの視座―

※本記事は連載で、全体の目次はこちらになります第1回から読む方はこちらです

 人間の本性を協力的なものと捉える見方と競争的なものと捉える見方は、哲学における性善説と性悪説の対立と深く関係しています。人間の本性が善なのか悪なのかについては、紀元前から西洋東洋問わず、様々な思想家によって論争が繰り広げられてきました。

 西洋では、紀元前385年に生まれた古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが性善説的な主張を展開し、人間は社会的存在であることを説きました。そして、「すべての共同体は人間の本性によって存在」し、それらは例外なく、なんらかの善を目指すと考えていました。

「すべてのポリス(国)は、われわれの見るところ、ある種の共同体である。そしてすべての共同体は、なんらかの善を目指してつくられている。(何故ならば、すべての人は自分たちが善いと思うもののためにこそ、あらゆることをなすのだからである)それゆえ、あらゆる共同体はなんらかの善を目指すのではあるが、すべてのなかで最もすぐれ、他のあらゆるものを包含している共同体こそが、あらゆる善のうちでも最もすぐれた善を、最高の仕方で目指すものであるということ、このことは明らかである。そして、この最もすぐれた共同体こそが、いわゆるポリス(国)、あるいはポリス的共同体なのである。」(アリストテレス、『政治学』より)

 アリストテレスは私欲の存在を否定はしませんでしたが、人々は協力し合う傾向を持っており、社会政治的関係がすべての人に相互に利益をもたらすと考えていました。そして、各人が持っている利己心は、好ましくない社会的環境から生じるものであり、人間の本性にはないものであると捉えていました。
 現代でも、ギリシャ系アメリカ人の社会学者、ニコラス・クリスタキスが同じような性善説を最新の研究成果を踏まえた著書『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』で展開しています。

 クリスタキスは、私たちの遺伝子には、社会性一式(ソーシャル・スイート)が暗号化されており、一人ひとりが「善き社会をつくりあげるための進化的青写真(ブループリント)」を持っていると論じています。そして、発育不全な人間が標準的な人間生理学を例証しないように、資源不足に対応した極端な社会的仕組み(マンガイヤ島における食人や人身御供)は本質的な社会秩序を例証しないと考えています。
 アリストテレスと同じ頃に東洋でも、儒教で孔子に次いで重要な人物とされる孟子が性善説を唱えています。彼は、「人間の本来の性質が善であるのは、ちょうど水が低い方へ流れるのと同じようなものだ。」と語っており、協力的で親切な感情は重力を感じるのと同じくらい自然なものであると説いています。このような善は、聖人でも小人(つまらない人)でも皆が備えている性質で、人が時として不善を行うのは、この善なる性質が外的な要因によって失われてしまうからだと考えたのです。そのため孟子は、「大徳の人と言われるほどの人物は、いつまでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」、「学問の道は外にはない、ただ、その見失った本来の心を求めることである。」と説き、人間が赤ちゃんの時から宿している善を取り戻すことで、不善を正すことができると説いています。ドイツの詩人、ゲーテも「真の教養とは、再び取り戻された純真さに他ならない」という名言を残していることから、孟子に近い考えを持っていたのかもしれません。
また孟子は、人間の成長を植物に例え、人の持っている良い心(四端)の成長を促すことが重要だと論じました。その「四端」とは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義されており、これらを努力して成育させることで、それぞれ仁・義・礼・智という4つの徳に到達できると考えました。そして、邪な人がいるのは、この「四端」が生育する環境に恵まれなかったことが原因だと捉えていたのです。

 この性善説に対して、性悪説を唱えて対抗したのが荀子です。彼は、「本来、人の性質は悪(弱いもの)であり、それが善になるのは人為の結果である。」と主張し、人間は本来利己的な存在で、強情に向かうと考えました。身体の満足と社会的特権の希求は人間にとって根深いものであり、皆が欲望を満たそうとすれば、殺し合いや奪い合いが生じて社会が混乱し窮乏するため、それらを抑え込むために法や政府が必要だと唱えたのです。そして、本性(悪)を後天的努力(学問を修める等)によって修正して善へと向かい、正しい礼を身に付けた君子を目指さなければならないと説きました。
 荀子は高貴な者と一般人との間の身分的・経済的格差も正当化しています。身分的・経済的差別は、欲望の衝立(パーティション)となって欲望が衝突することを防止していると考え、これをなくせば万人同士の欲望が衝突し、社会に混乱や窮乏をもたらすだけであると主張しました。
 西洋でも、紀元前430~400年頃に活躍したギリシャの修辞学者、トラシュマコスが性善説とは正反対の快楽主義的なモデルを唱えています。このモデルでは、利己心は生得的なもので、人は自然に個人の楽しみを追求するものだと考えます。そして、アリストテレスの主張のように協力的な気持ちから自然に共同体ができるのではなく、共同体から利己心の抑制を学ぶことでのみ人は協力的になると説きました。
 こういった考えは、それから約2000年後の17世紀前半に活躍したイングランドの思想家、ホッブスの考えにも通底しています。彼も人間は生まれつき善良なのではなく、生まれつき自己中心的な快楽主義者だと考えます。そして、人間社会が「自然状態(国家や法の規則が何も無い状態)」になり、人々が自己保存のために限られた資源をめぐって衝突したらどうなるかを想像します。そんな人生は「孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになり」、「万人の万人に対する闘争状態になる」はずだというのです。そうならないために、暴力と絶対的権威を独占的に与えられた国家を作り、その法と制度の下で平和な状態を保証する必要があると考えました。余談ですが、哲学者のカントも「人間の本性が堕落していることは、さまざまな国のあいだで成り立っている節度ない関係にあからさまに示されている」と述べています。

 性善説と性悪説の対立をざっくりと見てきましたが、このように人間の本性に対する考えが異なると社会的な影響をあまり受けていない幼い子どもに対する捉え方も正反対になります。左派は性善説に基づき、社会的影響をあまり受けていない幼児は、きっと純真で素直な性格だと解釈する傾向にあるのに対して、右派は性悪説から、幼児というのはもともとわがままで自分本位だと解釈する傾向にあります。カンボジアの極左勢力、クメール・ルージュのスローガンに「汚れていないのは、生まれたての赤ん坊だけだ」というものがありますが、このように左派は子どもが成長するにつれて社会から悪影響を受けることで利己性や攻撃性、欲望が発芽すると考えます。身近な例でいえば左派は、子供がジブリアニメで描かれるような無邪気で純真な存在であると思いやすく、右派は子供を「クレヨンしんちゃん」や「ちびまる子ちゃん」に出てくるような生意気で自分勝手な存在として思い描きやすいと言えるかもしれません。

 ところで、性悪説では、「限られた資源をめぐって人々が争う」と考えていましたが、人間でも自己保存の欲求が十分に満たされれば、利己的な欲望が抑制され、性善説のいうように協力的な本性が発揮されることになるのでしょうか。その参考になりそうな例が人の近親種である、チンパンジーとボノボです。
 ボノボとチンパンジーは、百万年前に分岐した近縁の猿で、ボノボは現在、中央アフリカ・コンゴ川の左岸の熱帯雨林にのみ生息しており、右岸に住んでいるチンパンジーとよく比較されることがあります。
 チンパンジーの生息域は、食べ物が少ないために日頃から争いが絶えません。そこでは、メスや食べ物をめぐる争いが起きやすく、彼らはテリトリーを守ることに非常に敏感です。特に隣接する群れとは熾烈な敵対関係にあり,時には殺し合いの戦争に発展することもあります。このような事情のため、彼らは好戦的で、よそもの嫌いで、階層的なオス優位の父系社会を形成しています。つまり、チンパンジーの社会は性悪説的で、人間でいう右翼的な性格を備えているといえるでしょう。
 一方、ボノボは比較的食べ物に困らない熱帯雨林に住んでいることから、協力的な性格を発展させてきました。個体間の闘争はチンパンジーと違ってほとんど観察されることはなく、個体間で緊張が高まると擬似的な交尾行動を行うことで衝突を回避します。彼らは、チンパンジーよりもよそもの好きで、バイ・セクシャルで、比較的平等で平和なメス優位の社会を形成しています。つまり、ボノボの社会は性善説的で、人間でいう左翼的な性格を備えているといえるでしょう。
 比較的近くに住む近縁の猿がこれほど違うのは、やはり食べ物の豊富さが原因だと考えられています(注4)。ボノボは限られた資源をめぐって争うことが少ないために、競争的な本性よりも協力的な本性が選択的に発達してきたのでしょう。

注4. Avi Tuschman, Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us (Amherst, NY: Prometheus Books, 2013), 218.

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