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散骨しに行ったら灰で花が芽吹いた話。


※人の死についてというデリケートな話題です。一部生々しい表現も出てきます。ご留意ください。



父の散骨をしてきた。

つい数日前の話だ。七回忌。早朝に実家で母とふたり、お坊さんを招き、お務めをして、車を5時間(法廷速度内で)とばして父の地元を訪れた。

父は生前、自分が亡くなったら地元に散骨して欲しいと言っていた。両親にはそれぞれ実家のお墓があるけど、そこには入らないのだそうだ。一人娘のわたしにお墓の管理を任せるのは望まぬところらしい。


父も母も末っ子で、わたしはその一人娘。両親が結婚してからわたしが産声をあげるまでそれなりに時間が経っていたため、親戚は年上ばかり、同級生の親御さんは父母より若い人がほとんどだった。

わたしは、親戚一同にべらぼうに甘やかされて育った。伯父伯母にも孫のように猫可愛がりされ、従兄弟たちからもお年玉をもらった。

(完全に余談だけどいじめられっ子だったわたしがどうにか生きてこられたのは、こうした身内の愛を受けることができたからだと思う)(何をしても嫌う人も居れば愛してくれる人も居るときちんと知っておくことができた)

一方で、両親との別れは早いだろうと小さい頃から言われてきていた。あくまで平均寿命の話だ。物心つく前に両親は離婚していてもう一人の親の顔を知らないとか、ある日突然事故で身内が亡くなってしまったとか、そんな知人も居たから必ずそこまで猶予があるわけではないとも思っていたけれど。特にうちの父方の家系は男が短命なことが多く、おじいちゃんはわたしが産まれる前に、伯父さんはわたしが中学生の頃に亡くなっていた。平均寿命よりまだうんと若いうちのことだ。


そしてその時は訪れる。

7年前、父は他界した。

平均寿命よりはうんと若かったけど、宣告された余命よりは頑張ってくれた。


父が亡くなる1週間前には母方の祖母も亡くなっていて、祖母を見送った数日後、まるで落ち着くのを見計らったように息をひきとった父は、最期まで思いやりのある人だった。

最愛の母と夫を同時に亡くした母の心を思うとあまりにもいたましく、どうにか母を支えなくてはと思ったわたしは一切泣くことなく大好きな父の葬儀を終えた。悲しむ間を与えぬような勢いで続く様々な手続きを母と二人で終えると、肌寒かった季節は過ぎ夏の気配がしていた。


あれから7年、色んなことがあったけれどいざ振り返ればあっという間だったような気もする。

更に何人か立て続けに身内や親しい人の不幸があった。ストレスが許容値を超えて身体を壊したわたしは家の階段をのぼるだけで息切れするようになってしまい休職を余儀なくされた。母は白髪染めをやめグレーヘアになった。グレーヘアになった母は、毎日父の遺骨の前で手を合わせては黒髪のまま笑う父に話しかけ、毎月の祖母の月命日には車を1時間走らせお墓参りをしていた。わたしはパートナーと出逢い実家を出た。新型ウイルスが流行、母とは気軽に会えなくなった。

父の散骨はわりと亡くなってすぐ母と話し合って決めていた。生前の父の言葉もあったし。諸々を考えて七回忌までは父をうちに置いておくことにして、いろんな人からいろんなことを言われつつそのまま七回忌を迎えた。

散骨の許可や遺骨を粉にする手続きは母が進めてくれた。散骨を禁止する法律はないけどいろんな手続きや配慮が求められる。当日は父の希望の場所に程近く、罪に問われない場所で、それでもなるべく目立たないように、粉のように小さく砕かれたものを撒くことになった。


まずはお墓参り。父の両親にご挨拶。

次に場所の下見。元々人通りの少ない場所を選んだけども更に慎重を期して暗くなってから改めて訪れることに。

ファミレスで早めの夕食。わたしは最後の確認をすることにした。


母は毎日父の遺骨に手を合わせ話しかけている。遺骨を粉にしてもらう際に数日業者さんに預けただけで寂しくてわたしに電話してきた。祖母の月命日にお墓参りも欠かさない。そんな母が、本当に散骨をしてしまっていいのか。既に何度も確認をしてきたけど先日の出来事に、わたしはまた改めてお墓とか遺品とかそういったものの重要さを考えることとなったのだ。



この記事で少し触れているとおり、知人が亡くなった。わたしより近しい人々が今どうにかお墓参りに行けないものかと動いている。そんな人達を身近で見ていて気づいたのだけど、多分わたしはお墓参りというものにあまり重きを置いていない。弔いの行為として、お墓やお仏壇の前で手を合わせる時間より、ふとした時に過る故人の思い出を懐かしんだり送り先のない手紙を書く方が肌に合っている気がする。

手を合わせる時、なにを想えばいいのかわからなかった。伝えたいことも聴きたいこともあまりにも多くて次から次へと言葉が出てくる。何時間でも続きそうなそれをどうにか手短にしなくてはと思うとかえってなにも伝えられず正直少し苦手だった。因みに神社仏閣へのお詣りもそんな感じ。最近は開き直ってひたすら無心になっている。無心の中に見えるものが一番重要でしょ、って自分を納得させて。

自分の中のその価値観に気づいた時、今回の散骨という弔いは母の中でより重要なものだと改めて感じた。勿論わたしにとっても重要かつ大きなことだけど、それによって変わるものの比重が母とわたしでは大きく異なる気がしてならない。


お母さん、本当にいいの?


母の意思は変わらない。

わたしはより突っ込んで話した。それまで黙っていた知人の死、それをきっかけに考えたこと、まだ先のことだけどいずれ父のと母のを二人分わたしがしたって構わないと。

それでも母は、遺言みたいなものだからと。

唯一母が意見を変えたのは伯母夫婦を呼ぶことだけ。

実は父の姉にあたる人が今も実家の近くに住んでいる。確認すると、散骨の話は既にしていたけど詳しい日取りは伝えないまま今日を迎えていた。声をかけると家に招かれるだろうが、都内で暮らすわたしと持病がある高齢の伯父伯母の接触はよくないと。それはわたしも同意見だけど肉親に事後報告もそれはそれで気が咎める。結局家には寄らず、屋外で手短に会うということで話をつけ、ファミレスを出てすぐ伯母に電話をかけた。夫婦揃って駆けつけてくれることになった。


北関東の寒空の下、伯母夫婦と母とわたしが揃った。

雨が降るかと心配したけど最強の晴れ男だった父の弔いにそんな心配は無用だった。

下見した場所に車を停め、少し歩く。母とわたしの手の中には透明なポリ袋に分けられた、ずしっと重い父の遺骨を粉にしたもの。

話には聞いていたし下見もしたけど、漫画やドラマで見てイメージしていた散骨と実際は全然違った。青空の下で大海原にとか、晴天に照らされた断崖絶壁の上からとか、そんな絵になる感じではない。

平たく言うと、藪。

伯母たちへの説明もそこそこに、母は無言で父の遺骨を藪に向かって撒いた。細かく粉末状にされた遺骨は風に舞い夜空にふわりと広がった。繰り返し繰り返し、一掴みずつ。呆気にとられたわたしはどうしていいかわからずひとまず伯母に自分の持っていた袋を渡した。伯母も母のように無言で藪に遺骨を撒いた。

不謹慎かもしれないけど、その時わたしは花咲か爺さんの話を思い出した。枯れ草ばかりの藪に白い遺骨が舞う。当然藪に花が芽吹くことはなかったけれど、その光景はわたしの心の中に何かを芽生えさせた。

中身が半分ほど減った袋を伯母から受けとる。

一掴み。思ったより細かい。あっという間に手のひらが粉だらけになった。

控えめに握った遺骨を二人に倣い撒く。恐る恐るやってしまって結構な塊がはたはたと近くに落ちた。

改めて、もう一掴み。

このままではみんなを待たせてしまうと思って、なるべく手のひらいっぱいに掴んだ遺骨を風にきちんと乗るよう放つ。

芽吹いた。胸がいっぱいだ。

大切な人の命の最期をわたしの手で。

袋の中が空っぽになって、わたしの胸がいっぱいになった。手をびっしりと覆う遺骨の粉の感触を、わたしは生涯忘れないだろう。


父の死に際して、忘れられない感触というのは2つ目だ。

在宅看護を受けていた父は自宅で亡くなった。母と二人で看取った。お医者さんが確認に訪れるまでの間に母が「父の口を閉じてあげたい」と言った。葬儀に来てくれた人に病人然とした顔を見せたくない、いつもの父の顔でお別れがしたいと。タオルを顎の下に通し頭の上で結ぶことにした。

わたしが父の顎を押さえ、母がタオルを結ぶ。なかなか半開きの口は閉まらない。時間が経てば経つほど閉じるのは難しくなるだろう。わたしはおっかなびっくり、母はぐいっと力をこめる。その瞬間、ブチッと鈍い音がした。父が口の中を痛めたのだと思う。父は呻くこともなく、ただ静かに眠っていた。もう父は目を覚まさないのだと強く認識した。

これは7年経った今でも、鮮明に覚えている感触だ。

あまり言えずに生きてきた。こうして改めて思い返し、適切な表現で書こうと思うと、胃がずんと重たくなる。あの日が父の最期だと思っていたけれど、先日あの場所で、父は改めて最期の日を迎えたんだと思った。


散骨は終えたものの、実はわたしと母のもとに少しずつ父の遺骨がある。粉末にしてもらった時に小分けにしてもらったものだ。

母から厚手の封筒に入ったそれを手渡される。中にはチャック付きのポリ袋が入っていて、更にその中に密封された小さなシルバーの袋が入っていた。カップ麺の粉末スープみたいと思った。その時は不謹慎だと思ったけど、母がお坊さんに説明する時も「乾燥剤みたいな」と言っていたのでやっぱりそんな感じだし血は争えない。

母は自分が火葬される時に一緒に棺に入れて欲しいと言った。わたしはどうするんだろう。まだ検討もつかない。


最後に。

そんな母だけれど散骨は父の傍ではなく自分の地元の海がいいんだそうだ。好きな人やもの、場所が多いのはいいことだと思う。

“遺言みたいなものだから”叶えてあげようと思っているけど、その時はまだまだまだまだまだまだずーーーっと先であって欲しいと願ってやまない。



※プライバシー保護のため一部ぼかしたり省いたりしています。きちんと管轄の方に相談・ご指導頂き散骨してきました。

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