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「常識」「べき」という言葉を日常的に使うと他者への寛容度が下がる

「常識的に考えて〜しない」「〜なら〜するべき」という言葉をよく聞く。

たしかに、他者が自分と全く違う意見や行動をしたときには、自分の意見を伝えたくなる。「常識」「べき」を使う人は、正義感が強くて無意識なだけかもしれないし、SNSの文字数制限の関係でコンパクトな言葉として代用している場合もあるだろう。

しかし私は、「普通」「べき」といった言葉を使わないようにしている。今回は、意見が違う相手を許せなかったり、自信がなくて相手の考えをつい否定してしまったりする人にとって、何かの気付きになれば嬉しい。

自分ルールが他者と全く同じとは限らない

意見を伝えることは大事だと思う。言葉にしないと伝わらない状況もあるし、案外人は他者に関心がないものだ。

でも、自分の意見や考えという「自分ルール」を伝えたとしても、他者が自分の考え方を採用するとは限らない。自分のなかで「常識」だと思っていることは、他者にとっての「常識」ではないから。

「常識的にありえない」「するべきだ」と考えたり、言葉に出したりしてしまうと、結局は何も解決策が生まれずにイライラが増幅するだけになる。

そして「自分ルール」に囚われすぎると、段々と人の行動に否定的になってくる。他者への寛容度が下がって、生きていて辛くなるし、幸せからも遠ざかると思う。

最後には、自分が何かに向けて行動したいときに、「普通」「べき」の言葉の強さが返ってきて、今度は自分が行動できなくなるのだ。

他者からの「常識」「べき」に囚われて、人目を気にしてしまうようになる。


だから私は"自分のため"に「普通は〜する」「するべき」を使わないようにしている。
私だって自分の意見と全く違うことをされると腹が立つときもある。でも、相手はコントロールできない。だったらコントロールできる範囲にフォーカスしていけば良い。

この考えをしてから、自分の中で「ちょっと許せる」範囲を広がった。寛容度が増して生きやすくなったのだ。

「日本人全員が共通認識を持っている」考えは危険

しばらく海外に住んでみて、帰国して日本の素晴らしさと闇について考えるようになった。海外が全て良いわけではないけれど、改めて日本と他国は極端すぎるほど異なる特殊な環境だなと。

他者への寛容度が低くなるのは、「日本人全員が共通認識を持っている」と潜在的に思ってしまっているからだと思う。


日本は素晴らしい国だ。いつだって清潔で時間に正確で、ご飯も安くて美味しい。後ろポケットに財布を入れても、盗られることは少ない。
さすがに絶対ではないけど、財布を落としても全て無事に帰ってくることもある。

日本語も便利な言語だ。曖昧な表現でも相手に伝わる可能性が高いし、相手の意図を察して話すことが自然とできる。私たちは言葉の「行間を読む」野力に長けている。

そんな素晴らしすぎる文化や言葉に囲まれて生活していると、私たちは日本人ならば、誰でも同じ「常識」を持っていると考えがちではないだろうか。

だからこそ、少しでも日本人としてのルールを破ったり、列からはみ出したりした人には容赦無く攻撃する。


だって「常識」を破った「普通の人」ではないわけだし、空気を読まないならば排除して攻撃される「べき」でしょう?


でも、同じ言語話者だからといって、全てをわかりあえるわけではない。他者との違いを認める、寛容度を上げるだけで日々の幸福度もグッと上がる。

もちろん、違う意見過ぎて一緒にいて苦痛な場合もある。どうしても他者と合わないならば、離れてしまえば良い。

「私はこう思う」「あなたの意見と違う」と主張しても良いし、害を与えてくる人は無視で良いと思う。

ただ、「普通」「べき」を使っても何も解決しない。

寛容度と幸福感の関係性

なぜ、他者への寛容度を大事にするのか。「常識」「べき」で他者を排除し続けると自分が疲れてしまって、いつまで経っても怒ることになって消耗する。

他者に寛容になれば、その分生きやすくなって幸福度も上がる。

一時的には、自分と違う意見の"邪魔者"を排除したら、気分が良くて良いことをしたらスカッとするかもしれない。

でも、また次回違う人に同じことをされたら?

みんな違ってみんな良いと一言で片付けられる話ではないけれど、他者にルールを押し付けても自分は何も変わらない。


例えば、昔住んでいたフィリピンでは他者に寛容になるしかなかった。
あらゆる出来事は、日本のルールでは通用しないからだ。

ある日カフェに行って、レギュラーメニューだったチキンナゲットを頼むと、「今日は切らしてるから無理、明日入荷するから。」と言われて、その店員はすぐに気怠そうにスマホをいじる。

次の日、試しにまた注文してみると「今日は切らしてるから無理、明日入荷するから。」と言われる。ドラクエのモブキャラか。

さすがに常識的に考えてメニューから消すか、材料買って来るべきだと思ってしまいたくなるかもしれない。イライラするし、人にとっては店員に怒るかもしれない。

でも私は、フィリピンでは客と店員が対等という考えだから仕方がないと考えた。入荷するまで気長に待つか、どうしても食べたいならばマックに行けば良いと。

だから、たまたまそのカフェで常連になって、冗談でまたチキンナゲットを注文したら、「材料はないけど、君のためなら買ってきて作るよ!」と言ってくれたときは嬉しかった。

他者に寛容になれば、些細なことでも面白くなるし、幸せになれると思う。


いきなり、他者に寛容になれと言っても難しいし、海外に住んでも考えが変わらない人もいるかもしれない。

最初にできることは、自分が「常識」「べき」を使わないようすること。もし使ってしまったら、「自分の意見ではそう思うんだな」と客観視して見ることで、寛容度が上がってくる。

私だってまだまだ、他者にイラついたり、つい「常識」「べき」を使ったりしそうになる。

だから気持ちはわかるけれど、寛容度を上げれば人生も面白くなって、生きやすくなってくる。

人目を気にして閉塞感を感じている人、他者の意見が認められない人も、少しずつ言葉の持つ力で、生きやすい人生に変えていってほしいと思う。

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