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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 26(了)

 中大兄の称制6(667)年2月27日、宝大王と間人大王を小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)に、大田皇女をその陵の前に葬った。

 そして3月19日、天皇家誕生以来始めて、宮が琵琶湖の辺に建設された。

 近江大津宮(おうみおおつのみや)である。

 近江大津宮は、現在の滋賀県大津市錦織地区一帯に存在していた。

 その全貌は明らかではないが、発掘調査によって北側に大殿を持つ大王の政務兼居住区と南側に朝堂院を持つ臣下の政務区に分かれたことが明らかにされている。

 この宮に関しては、近江京という記載も見えるのだが、後の藤原京や平城京のような区画整備された京が置かれたかどうか謎である。

 ただそうなると、東側は琵琶湖に阻まれ、西側が比叡山系に囲まれているので、南北に長い都になるのだが………………

 さて、中大兄は、なぜ近江に遷都しなくてはならなかったのだろうか?

 その真意は如何に?

 これには、唐の侵略を恐れ、都を奥地に遷したという学説や、中大兄が新政を築くための遷都だという意見、また大友皇子の即位のための遷都と言う意見があるが、一番忘れてならないのは、この近江が百済を始めとする渡来人が多く居留した地域だということだ。

 近江への遷都は、この渡来人たちの力が大きく働いていたのではないだろうか?

 ただ、既存の説を全て否定するつもりはない。

 人間とは、複雑な思考の上に行動する動物である。

 ただ単に、一つの目的で行動を決めることはありえない。

 同じ様に、この場合も多くの要因が重なって、結果的に近江に遷都することとなったと考えた方が良いだろう。

 中大兄の称制7(668)年1月3日、難波・飛鳥派の勢力を弱めることに成功した中大兄は、玉座にその席を占める。

 鎌子とともに古代史の英雄に上げられる天智(てんじ)天皇の誕生である。

 1ヵ月後の2月23日、彼は古人皇子(ふるひとのみこ)の娘である倭姫王(やまとひめのおおきみ)を大后(おおきさき)に立てた。

 さて、この宮遷しには、多くの飛鳥の住人から反発の声が上がったらしい。

 それを如実に示す額田姫王の歌がここにある。

 

  味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠れまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや

  (三輪山よ、奈良山の山の間に隠れるまで、道の曲り角ごとに、じっくりと見て行こうと思うよ、しばしば臨もうと思う山を、無情にも雲が繰り返し繰り返し隠してよいものだろうか)
(『萬葉集』巻第一)

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