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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 16

 中臣鎌子の屋敷に着いた時には、安麻呂は肩で息をしていた。

これを見た馬来田は、

「普段、運動しないからこうなるのだ。歌ばっかり詠んでないで、たまには武人らしく、素振りの百や二百をやって見ろ! 少しは体力がつくぞ」

 と、甥の体力不足を諫めた。

安麻呂は、これに反論したいのだが、息が上がってなかなか話すことができない。

それを見て馬来田は、「情けない」と言いながら、屋敷の奥へと入っていった。

 屋敷に入った二人を待っていたのは、豪華な食卓と鎌子と大海人皇子であった。

「馬来田殿、安麻呂、よく来られた。さあ、こちらへ」

 鎌子の勧めた席に、二人は腰を下ろした。

安麻呂は、ようやく息を平静に戻すことができた。

「大海人様と馬来田殿は、宮中で何度か顔を合わせておいでと思いますが、改めて御紹介します。大海人様、こちらが大伴馬来田殿、そしてこちらが馬飼大臣(うまかいのおおおみ)(長徳(ながとこ))の六男 ―― 安麻呂です。馬来田殿、安麻呂、こちらが田村大王と宝大王(たからのおおきみ)の御次男で、現大王の弟君であらせられる大海人皇子です」

 鎌子の紹介の後、三人は夫々頭をさげて挨拶をした。

「本日は、大海人様が是非とも馬来田殿にお会いしたいとのことでしたので、このような席を設けた次第です」

「私にですか?」

 馬来田は、大海人皇子の顔を見た。

「ええ、是非とも武人の誉れ高い大伴家とお近づきになりたくて。さあ、どうぞ一献」

 大海人皇子は、馬来田の杯に酒を注いだ。

馬来田は、慌てて酒を受けた。

皇子が、自ら臣下に酒を注ぐことなどあり得ない ―― ここが、大海人皇子が他の皇子と違うところであり、また本人も、それが人心を掌握する手段だと分かっていた。

馬来田は、受けた酒を飲んだ。

大海人皇子は、その馬来田の顔をニコニコと眺めている。

「しかし、なぜ私どもと?」

「私は、大伴家こそ国家の中枢にあってもらいたいと思っているのですよ」

 大海人皇子の笑顔は変わらない。

しかし、その言葉は馬来田や安麻呂の心を掴むには十分すぎる言葉であった。

冠位改正が有耶無耶になって以来、大海人皇子は宮内で微妙な立場に立たされていた。

いままでの宮内の勢力図は、蘇我赤兄を代表とする飛鳥派と鎌子を代表とする難波派がその中心にあったが、最近では、そこに中大兄が多く登用した百済の亡命貴族の一派が入ってくるようになっていた。

これは、中大兄が自分の思いどおりならない宮内を押さえるために、中大兄の支持者である百済の亡命貴族の力を強め、独裁政権を作り上げようと考えていたからである。

これに危機感を抱いた大海人皇子は、宮内での地位を確立するとともに、万が一に備えて、軍事力を勢力下に入れて置こうと考えたのである。

「ご存知ですか? ここ最近、宮内で百済の亡命貴族の力が強くなっているのを」

「そう言えば、いまも中大兄の屋敷から鬼室集斯殿が出て行くのを見ましたが」

 安麻呂が口を挟んだ。

「それは、お礼の挨拶ではないですか、今日、鬼室集斯殿は小錦下を賜りましたから。それに、百済の民も近江(おうみ)の神前郡(かむさきのこおり)に領地を賜りましたので」

 鎌子は、杯に口をつけながら言った。

「なるほど、それでは益々百済の力が強くなりますな」

 馬来田は腕組みをした ………………確かに、百済の亡命貴族の力が強くなると、自分たちが入り込む余地はなくなりそうである……………… 彼は、大海人皇子を見た。

「それで、我々に如何しろと?」

「いまのところは何も。ただ、その腕に磨きを掛けてもらいたいのですよ」

「はあ……」

「大伴連、時代は必ず動きます。それまでは、ただひたすらに待ちましょう。さあ、もう一杯」

 大海人皇子は、さらに馬来田の杯に酒を注ぐ。

馬来田は、大海人皇子の顔をじっと見る。

―― この御仁、何処まで信用してよいやら………………

一方の安麻呂は、何も考えずに鎌子の用意した食事に舌鼓を打っていた。

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