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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 19

「額田様は、如何ですか?」

 額田姫王は、「えっつ? 私ですか?」という驚いた顔をしていた。

 それもそのはず、いくら歌の名手といわれる額田姫王でも、漢詩は無理だ。

 鎌子も焦っていたのか、額田姫王に振った瞬間、「仕舞った!」というような顔をした。

 だが額田姫王は、一瞬驚いた顔をしたものの、すぐさまにこりと微笑み、

「いつもの歌でよろしければ……」

 と断ったうえで、詠いだした。

 

 

  冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ

   咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず

   (春がやってくると、冬の間鳴かなかった鳥も、鳴きにやってきます。

    咲かなかった花も、咲き誇りますが、山が生い茂り、入って行って取ることもできませんし、

    草が深くて、手に取ってみたくてもできません)

 

 

 と聞いて、なるほど春山は美しいが、その美しさを手のすることができずに妬いているのだな、これは「秋山」が優勢なのだと、安麻呂は思った。

 

 

  秋山の 木の葉を見ては

   黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きばを 置きて歎(なげ)く そこし恨めし

  (秋山の木の葉を見ていると、紅い葉は手に取って愛でますが、

   青い葉はそのままにし嘆息します、そこが残念ですね)

 

 

 安麻呂は、首を傾げた。

 秋山の紅葉は美しいが、緑の葉が残っているところがあるからとため息を吐く………………秋山を憂いている?

 額田姫王は、「春山」派なのか、「秋山」派なのか、それとも優劣つかずで終わらせるのか………………彼は、じっと次の言葉を待つ。

 宴席にいる者も同じだ。

 額田姫王の次の一言を待っている。

 さっきまで「歌なんて、俺達には関係ない」と酒を飲んで馬鹿騒ぎしていた連中まで、聞き耳を立てている。

 皆の視線が集まる中、額田姫王はすっと息を吸い、薄っすらと目を開け、

 

 

  秋山ぞわれは

  (私は、秋の山のほうが美しいと思います)(『萬葉集』巻第一)

 

 

 凛とした声で言い切った。

 淡海に彼女の声が響き渡ったあと、拍手喝さいが起こった。

 安麻呂も、うんと唸った。

 春は良いとみせかけ、春の欠点を指摘し、では秋が良いかと思えば、秋の欠点も指摘する。

 では、どちらなのだとみんなが固唾を呑んだところで、私は秋だ、と!

「さすがは額田様だ!」

 安麻呂は、思わず叫んでしまった。

 大伴のお歴々に睨まれてしまった。

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