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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第一章「純愛の村」 32

「信長とは、どういう武将なのですか?」

 と、源太郎も訊いてきた。

「〝うつけ〟と呼ばれて、目はないと云われていたんですがね、先代が亡くなった後に、弟を当主にしようとする一族や家臣たちがいたそうですが、それを抑えて当主になり、さらには『海道一の弓取り』といわれた今川を討ち取り、さらには尾張を平定し、美濃まで分捕ったんですから、ただの〝うつけ〟ではないでしょう」

 もともと織田氏は、尾張で斯波氏の守護代を務めていた。

 といっても、現当主の信長は、織田の本家筋ではない。

 尾張は、岩倉の織田と清州の織田に分かれて互いに牽制しあい、信長の父である信秀(のぶひで)は、清州織田氏の家臣に過ぎなかった。

 それが、津島の港町を抑える勝幡城を本拠地として財力を貯え、あれよあれよと勢力を拡大していった。

「信秀という人はかなりのやり手で、戦もそうですが、財力もあり、津島の交易などで相当貯えているようで、帝の内裏修繕に四〇〇〇貫も出したとか」

 四〇〇〇貫っていくらだろう ―― 権太には想像もつかない。

 が、志半ばで信秀が亡くなった。

 偉大なる父を持つと子が困るのだが、信長も例にもれず、まあ、普段の言動もあって、次の当主にと弟の信勝(のぶかつ)を担ぎ出す家臣もおり、また父から譲り受けた領地も万全ではなく、これらを安定化させるのに力を費やさねばならなかった。

「それにしても、家督を継いでから尾張一国を平定するまでに八年ほどでやり遂げたのですから、その時点でただの〝うつけ〟ではありますまい。しかもその勢いにのって、駿河の今川義元まで打ち破ったのですから」

「それほど、織田の兵は強いのですか?」

「強いです」、十兵衛は断言した、「これは朝倉様にも聞かれましたが、かなり手強いかと。私も各地を回ってみてきましたが、織田の兵は頭ひとつ抜きんでております」

「朝倉様の兵よりも?」

 源太郎の問いに、十兵衛はあえて答えなかった。

「織田の兵は、その財力をいかして人を雇い入れ、兵として常に鍛錬をしております。普段は田畑を営み、陣触れがあればいざ合戦という、我々とは違います。ただ、財力があれば、かならずしも兵が強いかというと、そういう訳ではない。所詮は銭でつながっているだけ、不利になれば主人を見限りこともある。しかし、いまの織田には、それを抑えるだけの力があります」

「それは?」

「武将としての気概でしょう」

 十兵衛は、一度京で信長を見たという。

 将軍義輝に謁見するため、五〇〇の将兵を連れて上洛したときのこと、馬上の信長は、小柄の細面で、顔も青白くて、その派手な装束がより際立ち、むしろ衣装に着せられているような感じで、都人からは失笑を買っていたが………………

「この人、戦では自ら先陣を切って敵営に乗り込むとか。一国の領主になれば、戦では陣幕にいて采配するのが常です。当然です、大将の首を取られれば、そこで戦は終わるのですから。ですが織田は、敵の首を狙って自ら挑むのですから、例え雇われの身とはいえ、己が大将が率先して戦を駆るのを見れば、奮起せずにはおられますまい」

 十兵衛は、珍しく聊か興奮したような口調である。

 恐らくは、自らも足軽として先陣を駆けた経験上、そういった大将がいれば、己も命を賭して戦うという心構えがあるのだろう。

 それが、武将としての「気概」なのかもしれない。

 権太には、その辺はよく分からなかったが。

「その大将が、美濃を奪った勢いで越前に乗り込んで御覧なさい、いまの朝倉様にそこまでの度量はおありですかと?」

 それを正直に義景に話したらしい。

 もちろん、一門衆である景鏡や家臣団は大激怒。

 十兵衛の主人である山崎吉延も良い顔はしていない。

 が、当の義景と山崎吉家だけは、神妙な顔で聞いていたという。

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