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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第三章「寵愛の帳」 34

「あとは?」
 藤吉郎は先を急かす。
「あとは……」、貞勝は更に声を小さくして、「殿は大丈夫かと」
「大丈夫? 大丈夫とは如何様なことで?」
 貞勝は咳ばらいをして、
「殿が裏切らないかとのことだ」
「まさか!」、藤吉郎は素っ頓狂な声をあげた、「殿がそのようなことを! どうすれば、そのようなことを思いつくのですか? あれほど公方様のために尽くしておられるというのに」
 いまにも貞勝に噛みつかん勢いだ。
「拙者に言われても……、あくまで公方様がということだ。いや、公方様というよりも、奉公衆が……なのだが」
「しかし、それにしても……」
「まあ、奉公衆にしてみれば、朝倉や松永のことがあるので、警戒しておるのでしょう」
 義昭は、将軍就任のために朝倉氏を頼ったが、義景(よしかげ)は元服時の加冠役(いわゆる烏帽子親)まで務めたのに、とうとう腰をあげなかった。
 その後、将軍として義景に上洛せよと促したが、腰をあげず、結局信長が出兵するはめに………………
 さらに、浅井も裏切り、信長軍は京に逃げ帰るはめになった。
 その征伐で、いま信長が手を取られている。
 松永弾正も、一度はこちらについたのに、三好義継と共謀し、裏を返した。
 細川昭元や三好三人衆、本願寺も和睦をしたが、いつこれを破るか分からない。
 その他にも、畠山秋高(はたけやま・あきたか)、遊佐信教(ゆさ・のぶのり)、忠臣和田惟政(わだ・これまさ)の息子惟長(これなが)が、いつ反旗を翻すのではないかと噂にあがっていた。
「それだけではござらん。奉公衆の中でも、殿に信を寄せる者もおれば、疑いの目で見ておる者もいるようで、幕臣も一枚岩ではござらん。中には、殿に信を寄せる公方様に、これ以上ついていけぬと離反しようとする者もおるようで……、このような中におられれば、公方様の心中色々とあるかと……」
「全くくだらん!」と、藤吉郎は吐き捨てた、「全くくだらん連中でござる。家臣ならば公方様を盛り立て、安心させるのがそのお役でしょうに、逆に公方様の御心を惑わすようなことをしおって、侍の風上にもおけませぬな。ましてや、公方様を裏切るようなことなど……」
「まことに、左様で」
「それで? 公方様ご自身は如何様に?」
「公方様ご自身は………………」、貞勝は首を傾げる、「殿を信じていらっしゃるのか? いないのか? なかなか掴めぬ。所用でお会いする機会は多いが……、なんでござろうか、吾関せずというか、俗世のことには興味ないというか」
「ああ……、そういう分かりづらい人でしたな。拙者も、あのお方が何を考えておられるのか、よう分からん。以前、お傍にお仕えしていた十兵衛殿に……」
 十兵衛の名前が出てきたので、退屈して欠伸をしそうになったが、太若丸はぐっと堪えた。
「以前十兵衛殿に、公方様とは如何様な御仁かと尋ねたことがあったが、十兵衛殿も『拙者にも分からん』と笑っておった。お傍に仕えた者が分からんのだから、我らに分かろうはずもない」
「うむ、藤吉郎殿は、奉公衆は侍の風上にもおけんと言われたが、あの御仁の下で働くのであれば、さもありなん」
「まあ、確かに」、藤吉郎は腕を組んで天井を見上げる、「あれやこれやと殿は厳しいお方だが、何のためにするのか、何をすべきか、そのあたりが明確なので、拙者らも動きやすい。が、確かにあの公方様のもとではな………………」
「お互い、良き主人を持って幸せですな」
「左様で」
 二人はからからと笑った。
「まあ、ともかく、殿が公方様を裏切るようなことは聊かもござらんと、奉公衆には斯様お伝えくだされ」
 藤吉郎の自信に満ちた言葉に、貞勝は確かにと頷いた。

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