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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 45(了)

 塔の中に、男がいた。

 頭を剃っているので、僧侶だと分かる。

 が、背中を向けているので、弟成かどうか分からない。

「弟成か?」

 と呼んだが、返答はない。

「弟成!」

 と、男に近づき、肩を掴んでこっちを向かせると、懐かしい親友の顔に、しばし言葉もなかった。

 だが、気を取り直し、

「弟成、お前、なんで帰ってきた!」

 と、叫んだ。

 しかし、男は黒麻呂を見向きもせず、仏像を彫り続ける。

「お前……」、その態度が余計に火に油を注いだ、「なんで、今頃帰ってきたんや!」

「黒麻呂、何やってる?」

 黒麻呂の怒号を聞いて、外にいた大津が慌てて中に入ってきた。

「そ、その男はなんだ?」

「こいつは……」

 そう言いかけたとき、

「黒麻呂、待って!」

 と、女が飛び込んできた。

 服もぼろぼろ、泥だらけ、髪は乱れ、額からは血を流し、腕や足には無数の傷がついているが、八重女である。

「八重女、お前、なんで?」

「八重子様?」

 八重女は、弟成を守るようにして、彼のもとに駆け寄る。

「黒麻呂、止めて! お願い、こんなこと止めて!」

「お前……、そこまでして……、そこまでして……、そこまでして弟成のことを……!」

「ごめんなさい、黒麻呂……」

 木片や木くずが散らばった床に、ぽつり、ぽつりと女の涙が落ちる。

 黒麻呂は悔しかった、そして悲しかった。

 これほど好きな女が、愛した女が、他の男のことを思っていることが………………

 そして、その男が、女の涙に何の反応も見せず、ただただ棒切れをいじりまわしていることが………………

「弟成、お前、なんで何にも言わんのや! こんなに八重女が尽くしてるのに、こんなに八重女が涙しとるのに、なんで、なんで……、弟成! 答えろや!」

 怒鳴り散らすが、弟成はぴくりともしない。

 外から青白い光が差し込む、少しおいて雷の音 ―― だいぶ近くなったようだ。

「雨が来そうだ、急げ、黒麻呂、そんな男、もう放っておけ、八重子様も、こちらへ」

 大津が、黒麻呂たちに声をかけるが、全く聞こえてないのか、黒麻呂は怒りに顔を紅潮させ、八重女は泣き続け、弟成はただ手を動かしている。

 傍から見ると、異様な光景だ。

「弟成、返事をせいや!」

 黒麻呂の声が更に大きくなる。

「弟成……、貴様……!」

 黒麻呂が腰に下げていた剣を抜き放ち、弟成の首元に突き付ける。

 それでも、弟成は淡々と仏像をいじっている。

「弟成! 俺を無視するんか! この俺を! この俺を! 貴様!」

 怒りが頂点に達した男は、剣を振り上げ、勢いよく振り下ろす。

「いや、止めて!」

 女が、弟成の前に躍り出る………………塔内に女の悲鳴が響き渡り、刹那、鮮血が弟成へと降り注ぐ。

 花びらが落ちる様に………………女も………………

「や、八重女……、八重女……」

 女は床に横たわり、全く動かない。

「そ、そんな……、八重女……」

 黒麻呂は、自分が何をしたのかも分からず、呆然としている。

「なんだ、今の悲鳴は?」、飛び込んできたのは大伴大国だ、「こ、これは……、大津、何が?」

「いえ、それが……」

 大津が、大国に事の顛末を説明しようとしたときだ。

「八重女……、八重女……」

 呆然となりながら後ずさりする黒麻呂の踵に、火の入った油皿が当たり、転がった。

 刹那、ぼっと赤く染まる。

 緋が走った。

 炎は瞬く間に床を這い、壁際の仏像へと燃え移る。

「これはまずい、大津、黒麻呂、外に出ろ!」

 大国と大津は、慌てて外に出る。

 だが、黒麻呂がついてこない。

「あの馬鹿、何をしている!」

 黒麻呂は、広がる炎の中、呆然と女と男を見下ろしている。

 弟成は全身に女の血を浴びている。

 血で塗れた手元を見て、はっと何かに気が付いたように、床に転がる女を見た。

 そのまま女を抱き上げる。

 血の匂いの中に、ふとあの匂いを思い出す ―― そうだ、桃だ!

「八重女?」、弟成が口を開く、「八重女……、八重女!」

 彼の絶叫が響き渡る。

 弟成の声に、黒麻呂もはっと我に返る。

 辺りは、すでに火の海だ。

 その中に、顔が浮かんでいる ―― 仏像の顔………………

 白村江で死んだ凡波多(おおしのはた)の顔だ。

 孔王部宇志麻呂(あなおうべのうしまろ)の顔もある。

 物部鳥(ものべのとり)や三山次麻呂(みやまのつぎまろ)もいる。

 いや、あの戦で沈んでいった倭人……、それだけではない百済や唐、新羅人もいる。

 いや、あそこに弟成の父や兄の三成の顔もある。

 あの女は、弟成の妻の稲女!

 あの子は、弟成の死んだ子!

 そして、幼い少女が笑っている………………あの子だ、椿井の離宮の門の前にいた、あの子だ!

 みんな、黒万呂をじっと見つめている。

 まるで、責めるかのように………………

「み、見るなぁ~~~~!」

 黒麻呂は発狂した…………………

 

 ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。

 安麻呂は手をかざす。

「まだ準備出来ぬか? 大国からは?」

 御行の声が荒い。

「まだです。あっ、御行様、あれを……」

 兵士が指さした方角をみると、斑鳩寺の塔から火の粉があがっている。

「まさか、合図はまだだぞ! 早まったか?」

「如何いたしますか? 中止に?」

「馬鹿者が! ここまできて中止にできるか! 焼き払え!」

 御行の言葉に、兵士たちが一斉に動き出した。

 ―― 雨降る、雨降るか……

 安麻呂は、雨零れる天を仰ぎ、ずっと歌のことを考えていた………………

 

 ふと目を覚ました。

 なんだか外が騒がしい。

 聞師が夜具から脱け出すと、外で小僧が呼び掛けた。

「何事です?」

「お寺が、お寺が燃えています!」

「何ですって?」

 慌てて飛び出した………………

 

 燃え盛る火の中で、弟成は八重女を抱きしめている。

 ―― なぜ、俺は八重女を抱いているのだろう……、それにここは……

 そんな疑問はあったが、徐々に冷たくなる女の顔を見て、弟成はなぜか安心した。

 随分、幸せそうな顔をしている………………

 

 寺に駆け付けると、すでに入師もいた。

 寺法頭の下氷雑物が、家人や奴婢たちに「火を消せ! 水持ってこい!」と怒鳴っている。

 寺は赤々と燃え盛り、講堂はすでに全焼している。

「聞師殿、金堂や講堂にあった仏像や仏典は少し運び出しましたが、全部は……」

 明師が険しい顔をしながら言った。

 ―― 弟成は?

 と、尋ねようとしたとき、

「あっ!」

 と、明師が声をあげた。

 振り返ると、塔が雪崩のごとく、火の粉をあげて崩れ落ち行く。

 そのとき、聞師は確かに聞いた、入師が呟くのを………………

「世間虚假(せけんこけ)、唯佛是眞(ゆいぶつぜしん)(この世は虚しい仮の姿だ、ただ仏だけが真実なのだ)」

(了)

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