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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 25

 しかし、こういった話は足が速いものである。

 宮遷しの話は、あっという間に広まり、飛鳥の住民を驚かせた。

 一番驚いたのは、難波派と飛鳥派の群臣である………………いまさら、宮遷しとは………………

 それも、いままで宮が置かれたことのない近江にである。

 彼らは噂し合った ―― これは、近江派の仕業に違いない、と。

 だからといって、宮が近江に遷されるのを黙って見ているほど難波・飛鳥派の群臣はお人好しではない。

 彼らは、中大兄に事の仔細を正した。

「近江国からの報告なのだが、ある家の水桶に突然稲が生えて、その家は裕福になったそうだ。それからある家では、新婦の寝床にも稲が生えたそうだ。おまけにその新婦は、天から落ちてき鑰匙(かぎ)を拾って、その家は繁栄したそうだ。どうだ、これは吉兆だろ。おそらくは、近江に宮を遷しなさいとう神からの徴なのだ」

 中大兄のその言い訳に、多くの群臣が唖然とした。

「それに、この飛鳥は妹や娘の思い出が多すぎて私も辛い。だから、ここを出た方が大王としの職務にも身が入ると思うのだよ」

「お話は良く分かりました。しかし、宮を遷す動機にしては少々安易過ぎると思うのですが……、もう少し、我々の納得いく説明をお願いします」

 中臣鎌子が、彼を諫める。

「大王になれば、宮を遷すのは決まっているのであろう。であれば、私は近江に宮を遷す。それだけだ」

「しかし、中大兄はまだ大王ではありません。大王でないあなたが、なぜ宮を遷す必要がおありなのですか?」

「私は大兄だぞ! 次の大王だぞ! ならば、私が大王も同然。宮を遷すことにも問題はないはずだ!」

「大兄は、次の大王ではありません。あくまで大王候補の筆頭に過ぎません。それをお忘れなく」

「分かった、内臣。だが、近江への宮遷しは神が下された決断だ。その決断には、誰も逆らえん。良いな」

 中大兄は、その場を立ち去ろうとした。

「お待ちください! いましばらく、きちんとしたご説明を!」

「説明なら何度もした! これは、始めから決まっていたことだ! それをいまさら、如何のこうのと文句を付けるお前たちの気が知れん!」

 鎌子を始めとする群臣は、中大兄の後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。

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