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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 8

 彼女に家族はない。

 婢であるので、もともと家族を持つことは許されないのだが、それでも生みの親がいて、兄弟がいるのは当たり前だ。

 が、彼女は親の顔を知らない。

 兄弟がいるのかも分からない。

 はっきりと思い出すのは、今夜のような雨の音………………斑鳩寺の中門に、襤褸切れに巻かれて捨てられていた赤子………………それが彼女だった。

 彼女は運が良かった。

 一歩間違えれば、獣か、烏の餌になっていただろう。

 人買いに拾われ、そのまま市場で売られればいいが、ばらばらにされ、餓鬼の胃袋を満たしていたかもしれない。

 そうはならず、寺と上宮王家のはからいで、中宮の婢の中でちょうど子を亡くした女がいたので、そこに引き取られたことは幸いだった。

 その後は、何不自由なく ―― 奴婢なので、不自由という言葉自体可笑しいのだが、それでも婢として普通に成長し、普通に暮らしていた。

 父も母も優しく、ほとんどの奴婢たちも普通に接してくれた。

 もちろん中に、拾い子だと白い目で見てくる者や、陰口を叩く者もいたが、八重女は気にせず………………といったら嘘になるが、極力気にかけず、平然を装い普通に生活を続けた。

 そして、このまま婢として大人になり、好きな男ができて一緒になり、その男の子を産み、家族ができて、自分もまた養父たち同様、家族や仲間たちに見送られて死んでいくんだと………………平凡だが、これ以上の幸せはない婢としての一生を送るのだと思っていた。

 だが、その普通の生活も長くは続かなかった。

 上宮王家が滅亡し、斑鳩一帯に広がっていた莫大な所領と人員を斑鳩寺が受け継いだのだが、如何に厩戸皇子が創建した斑鳩寺といえども、数千人の奴婢は賄いきれず、半数は蘇我氏らへ引き継がれた。

 育ての父も母も、優しくしてくれた仲間も殆どが蘇我氏の所有となり、なぜか八重女だけが斑鳩寺に残された。

 正直、また捨てられたと思った。

 私は、「いらない子」なのだと。

 八重女は、幼心に覚悟を決めた。

 今後は、どんなことがあろうとも、ひとりで生きていこう。

 家族も作らず、子どもも作らず。

 そのほうが楽だ。

 ―― だって、生まれたときからひとりだったから………………

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