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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 17

「このあと、どないするか?」

「すぐに酒の準備やろう、厩長」

「黒万呂、今夜は大丈夫なんやろう?」

 と、奴婢たちは勝手に祝いの席を設けようとわいわいと動き始めた。

 その時、

「黒万呂、お帰り!」

 と、不意に声をかけられた。

 振り返り、あっとなった ―― 弟成の姉 ―― 雪女である、娘の廣女を抱いている、夫の忍人の顔も見える。

「ゆ、雪女姉さん……、あの……」

 雪女は、静かに首を振る。

 それ以上、黒万呂は何も言えない。

 雪女は、ほっと息を吐いた後、優しく言った。

「いいの、あなたが無事に戻ってきてくれれば」

「す、すみません……」

 絞り出すように、それしか言えなかった。

「弟成も、戻ってこないほうが良かったのよ」

「そ、そんな……」

「だって、母も……」

 弟成の母 ―― 黒女は、つい数か月前に亡くなったそうだ。

「最後まで、弟成の無事を信じていたけど……、でも、これで良かったの。母も、弟成の最期を知らずに済んだし、弟成も母の死を悲しまずに済んだ。きっと今頃、黄泉の国でふたり顔を合わせて、再会を喜んでいるわ」

 うぐっと、まるで鶏の首を絞めるような声がした。

 誰かと思えば、厩長が泣いている。

 他のみんなも涙を流している。

「ありがとう、黒万呂、弟成の最期を伝えてくれて。本当にありがとう……」

 腕の中の廣女が、わんわんと声をあげて泣く。

 忍人も、さめざめと泣いている、「ワシのせいで、ワシのせいで……」と呟きながら。

 ひとり雪女だけが、優しい笑みを黒万呂に向けている。

 その優しさが無性に苦しくて、心が痛かった。

 雪女も悲しいに違いない、苦しいに違ない。

 たった一人の肉親である ―― 父はすでにない、兄の三成も死んだ、母も亡くなった、夫の忍人と廣女はいるが、小さいころから面倒を見てきた弟である。

 本当は、黒万呂に文句を言いたいはずだ。

 なぜ、お前が帰ってきたのか? と。

 なぜ、弟成が死んで、お前は生きているのか? と。

 弟成の代わりに、お前が死ねば良かったのに、と。

 弟成を見捨てて帰ってきたのか? と。

 そう言ってくれたほうが、どんなに楽か………………

 これが、生き残った者の苦しみなのか?

 黒万呂は、ただただ項垂れるしかなかった。

「黒万呂、悪いが懐かしい再会はあとにしろ!」、この重苦しい雰囲気を救ったのは、大津であった、「先に大伴様の屋敷に戻るぞ」

 黒万呂は、両親や弟たち、奴婢の仲間にまた会いに来ると詫び、逃げるようにして隊列に加わった。

「お前のことは、斑鳩寺の寺法頭(てらほうず)に話をつけた。大伴の兵士にしたと言ったら、何かと難癖をつけてきたぞ。だから、稲九百束で買うと言ったら、千束と言ってきやがった。強欲な奴だ。おまけに、弟成の分も請求してきやがった」

 下氷雑物君(しもつひのざつぶつのきみ)のことだ、然もありなんと思った。

「だが、これでお前も晴れて大伴氏の兵士だ。奴婢としてではなく、兵士として大手を振って歩けるぞ。ん? お前、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

「い、いえ、大丈夫です」

「何か、あったか?」

 大津は、雑物と交渉をしていたので、黒万呂たちの様子を見ていなかったようだ。

「ならいいが」、と、前を歩き出した、「兎も角、胸を張って歩け。ワシらは、百済から無事に戻ってきた英雄だぞ」

 と、全軍に声をかける。

「おお!」と、大伴の兵士たちの声が斑鳩に響き渡る。

 黒万呂も、遅れて「おお!」と声をあげる、小さな声で。

 しばらく兵士たちとともに歩いていると、大伴朴本大国が馬を寄せてきた。

 何事かと、ちらちらと見上げながら歩き続ける。

 大国は、黙ったまま馬を歩かせ続ける。

 いい加減他のところに行ってくれないかなと思っていると、不意に話しかけてきた。

「戦場で死ぬことよりも、生き残るほうが辛い。だが、これが戦だ。お前ももう大伴の兵士だ。そのことを胸に刻め!」

 と、言って馬の腹をけり、駆けていた。

 ―― 何が! 俺は兵士じゃない!

 黒万呂は、遠ざかる大国の背中を睨みつけた。

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