見出し画像

【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 8

 瀧川政次郎氏は、律令時代の標準房戸(成人男子3人、成人女性5人、嬰児2人の計10人)の口分田(くぶんでん)(良民に与えられた公田)からの総収入を、現在の約7石5斗2升8合(約1,358キログラム)と算出されている。

 この10人が、1年間生活するための食稲が、約10石3斗8升6勺(約1,873キログラム)必要であったというから、彼らが得ることができた収入は、生活を維持するための5分の3程度であったのである(瀧川政次郎『律令時代の農民生活』名著普及会)。

 現在で言うと、年収700万円で生活する家族が、年収420万円で生活をしなければならないことと同じである。

 一時期流行った「年収300万円時代」で考えると、1年180万円で生活しなければならないこととなる。

 もちろん、人は米だけで生きてはいけないので、山河から副食を得ていただろうが、それでも、「貧窮問答歌」が現実味を帯びてはこないだろうか。

 国から田んぼが与えられるのだから、少なくとも安定した収入が得られるではないかと考える方もいようが、前述のとおり庶民の生活は大変圧迫していたのである。

 律令下の農民の税金は、口分田から取れる稲、即ち租(そ)だけではない。

 これに、庸調(ようちょう)という副税が課せられる。

 庸は賦役の代わりの税であり、調は田の面積に比する田税以外の税である。

 その他、雑税として義倉(ぎそう)(凶作に備えるための倉)・公出挙(こうすいこ)(利子付き消費貸借)、そして、最も過酷な兵役があった。

 兵役は、何十戸で1人というように規定されていたが、最大の労働力である男子が徴収されるのである。

 労働力を失った家は、どうやって食べていけばよいのだろうか?

 この他に、権力者が労働力を欲した場合に、良民を徴収していたので、彼らの生活は、まさに国の税によって縛られていたことになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?