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「誰かが誰か自身をさらけ出した文章」を読むということ

これから書くことは、特定個人への批判とかではないし、何かに問題提起をしたいということでもない。あくまで私自身の(現在進行形の)気持ちの整理を述べるものである。

私は日々インターネットにふれ、日々「誰かがその人自身のことを書いた文章」を読んでいる。私は「誰かがその人自身のことを書いた文章」がとても好きだ。その「誰か」は「世間で知られてる何者か」でも「世間で知られていない何者か」でも、どっちでもいい。もちろん、その人自身のことを書き続けてそれを仕事として成り立たせている人もたくさんいるけれど、世間で知られていない何者かが、本当に私的な範囲で、趣味で書いている文章のなかにも、おもしろいものはたくさんある。そして私もまた、Twitterやnote、ブログなどで、「私が自分自身のことを書いた文章」を書いている。

世間で知られている人ならばともかく、世間で知られていない人がその人自身のことを書いた文章の一体何が他人にとっておもしろいのか? そこには「身近なようで自分が知らない世界」があり、「もしかしたら自分は見落としていたけれど、自分も本当は知っているような感覚」がある。「自分もそのことは考えていたけれど、そういう言葉でアウトプットされるのか」というおもしろさもあるだろうし、「そんなこと微塵も考えてなかったな、自分だったらこの言葉を受けてどう考えるだろう」という気づきもある。もちろんこの世のすべての文章に言えることなのだが、そこには「共感ゆえの気持ちよさ」と「非共感ゆえの気持ちよさ」の両方がある。そして書き手にしてみても、「共感されるがゆえの気持ちよさ」と「非共感されるがゆえの気持ちよさ」があることだろう。だからこそ私は「悪友」という同人誌をつくり、そこでは匿名の女性たちに「普段は言えないこと」をさらけ出してもらっているというのもある。

しかし、忘れてはいけないのは、「誰かが誰か自身を書いた文章」には、かならず「見世物小屋」的な感覚があり、一歩間違うとそれは「精神的なリストカット」になるのではないかということだ。そして、みんな、あまりにも無邪気に「自分をさらけ出した」文章(やコミックエッセイ)をとうとんでいるように思う。

「ヒリヒリする」
「こんなにも自分をさらけ出せるのはかっこいい」
「安易に感想は言えないけれどよく書いてくれた」

これは間違いなく賞賛ではあるし、書いた側としてもこの反応をのぞんでいることだろう。すると、どうなるか。どんどん自分をさらけ出していかざるをえなくなるように思う。さらけ出したコンテンツによって評価され、「さらけ出さないコンテンツ」に移行できるならいいんだけど、「さらけ出し続けないといけない」と思ってしまう人、その後も読み手の期待に答えてさらけ出し続けている人、があまりにも多い。

この文章を書くきっかけになったのは、佐々木ののかさんだ。彼女は知らないだろうけれど、私は以下のnoteを読んだときから、事あるごとに彼女のことを考えている。

幸せだって言ってんだから、みんな私を祝えバカhttps://note.mu/sasakinonoka/n/n671ee73f0284

実は以下の私自身のnoteを書いたときも、彼女の文章のことを考えていた。

2017年もとくに結婚していない女がアンコウ鍋を食べた報告https://note.mu/hirarisa_lv0/n/ndcc02d683eeb

で、今日、以下のnoteやその感想群を目にして、ついついまた考えてしまった。

五体満足なのに、不自由な身体https://note.mu/sasakinonoka/n/na6bca8207675

これはとてもエネルギーのある文章だし、素晴らしいし、私も最後まで読みいってしまった。彼女の文章にほとばしるものがあるのは間違いなくて、すごいなあこういうものを書ける人はと思ったりもする。

でも(読んでしまってから言うのもあれだけど)、佐々木さんの文章には自覚的に「見世物小屋」の感覚があるわけで(そのことが、今回の文章の前書きではっきり表れているだろう)、これを「ヒリヒリする」「こんなにも自分をさらけ出せるのはかっこいい」「安易に感想は言えないけれどよく書いてくれた」と言ってしまうことには、私は疑問を感じてしまう。

彼女としてはこの文章を書こうと思った時点で、ある種の克服ができており、この文章を書いたことである種のセラピーになっている、のかもしれない。そういう意見もあるだろう。彼女の場合は、自分のことを書く以外のライター活動もきちんとされているし、ここまで「さらけ出された」文章というのも、すべて計算のうちと言えるのかもしれない。

しかしやはり「情動のまま」の割合が高いのであるならば、それはやはり「ヒリヒリする」とか「よくぞやってくれた」と言って読んでいいものではないようにも思う。じゃあどうすればいいのかわからないんだけども。

私は佐々木さんを批判するつもりはないのです。このnoteの内容が伝わっちゃうことはあるかもしれないという想定のもとにも書いています。きっかけは佐々木さんだったので名前を挙げていますが、近年「さらけ出しコンテンツ」が随分と増えていて、その全般について考えていることだというのはご理解してもらえると。まだぐるぐる考えがまとまってないから、クローズドな場で書いているのもあるし。少なくとも、「さらけ出した」ということ自体を賞賛する流れはいやなんだよなあ。

私も私で、「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んだときは、無邪気に「よくぞさらけ出してくれた」と思ってしまった。

インタビューも何度もさせてもらった。

『一人交換日記』『レズ風俗レポ』永田カビインタビューhttps://cakes.mu/series/3710

さらけ出しているコンテンツ、世の中には全然たくさんあって、そして「増えている」ように思う。ネットだとバズりやすいからなのかな。

『酔うと化け物になる父がつらい』
『ど根性ガエルの娘』

とかもそうですね。私も読んでいる。

でもやっぱり、この手のものは、もう少し慎重に扱わねばならないようにも思っている。それは書き手にとっても読み手にとっても劇薬なのだ。

実は、雨宮まみさんの文章を読み返しているのも、こうしたことを考える大きいきっかけになった。雨宮さんのバランスは、ヒリヒリしたものを書き出しながらも、ギリギリ「書き手としての自分」「受け取る読み手」を意識したものになっているように思う(まあ商業媒体だから、というのもあるでしょうが)。

私が「さらけ出している人たち」を愛しているからこそ、考えてしまうということだ。

さらけ出さなければ、ヒリヒリできないのだろうか?
さらけ出してないと、かっこよくないのだろうか?

またひとつ私が懸念しているのは、女性の書き手ばかり「さらけ出していてえらい」と言われているように思うことだ。そこにもひとつ「見世物小屋」的な要素がある。

さらけ出してるんだけど、それが読み手側の消費になりすぎない、精神的リストカットにならない、「さらけ出してるけど、最後まではさらけ出さない」、そういうバランスというものを考えていきたくて、これからも「悪友」をつくっていきたくて、いろいろと考えているのでした。

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