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受験から逃げ出して、僕はデザイナーになった。

はじめに

背伸びした高校受験の結果、運良く?県内有数の進学校(男子校)に合格。当然、成績は低空飛行。僕の高校生活の大半は、中国語遊戯と文化祭実行委員で埋まっていた。ちなみに、映画『ウォーターボーイズ』の原案となった高校である。父親が半導体エンジニアだったので、「なんとなく」理数系コースを選んでいたところから、僕のデザイナー人生の幕は上がる。

高校2年生終盤の数学の授業の時、それは突然訪れた。数学の先生が黒板に問題を書く。低空飛行の僕は、さっぱり分からない。先生が爆睡中のT君を回答者に指名。T君は陸上部の朝練の疲れから寝ていた。T君は、寝起きから即座に回答し、正解。その姿を横目で見た時に、僕は受験から逃げ出す決心をした。

「こんな人と、同じ土俵(受験)で戦いたくない。世の中には、本当に頭が良い人がいるんだ!」

文化祭で、みんなで巨大な門をつくった体験から、何かをつくる仕事が良いなと考えて図書館で『なるにはBooks』を手に取り、職業を調べ始めた。そこで、映画の舞台、武器、クリチャー(生物)などをデザインする「コンセプチャルデザイナー」という職業を知った。

小学生の時、初めて父親と映画『ジュラシックパーク』を見たときの衝撃が蘇った。その職業と文化祭の門作りが重なったのだ。そこから美術大学の存在を知った。

「つらい受験勉強なんて、したくない。絵を描いて受験できるなんて最高じゃないか!」

僕は、進学校特有の受験戦争から逃げ出し、美術大学の受験を決めた。同級生は早慶・帝大クラスの進学受験を選ぶ中、美大を受ける人は皆無だった。当然、担任の先生とは進路相談はできず、美術部の先生を紹介してもらい、そこで、美大受験専門の予備校の存在を知った。小学校の絵画コンクールで、表彰されているからイケるはず!そこから予備校の体験講座に申し込み、石膏デッサンと出会った。そして、絶望した…。周りの学生は、幼少期から絵を学び、藝大受験を目指して、描いてきた人たちばかり。デッサン力の圧倒的な差に絶望した…。

「こんな僕のデッサン力で、夢見てごめなさい。」

体験講座で「コンセプチャルデザイナー」を目指す心は折れ、即座に路線変更を求められた。その時、予備校のパンフレットで、広告などのポスターを手掛けるグラフィックデザイナーのインタビュー記事を目にした。僕は食い入るように読んだ。

「これだ!これしかない!グラフィックデザイナーになろう!」

そこから、グラフィックデザイナーを目指し、2年間(現役+1浪)の美大受験の挑戦が始まった。しかし、有名なグラフィックデザイナーを送り出してきた「グラフィックデザイン学科」「視覚伝達デザイン学科」には落ち、結果として、情報デザイン学科に補欠合格した。情報デザイン学科のカリキュラムは予備校生の景色では謎すぎた。

「僕は、本当にデザイナーになれるのだろうか…?」

この問いこそが、自分を突き動かす原動力になっている。


左:美術大学でのはじめてつくった作品(2003)
右:卒業制作(2006)w/ 落合健太郎、阿達裕也

生き残るために逃げる

カジュアル面談において「平野さんのやりたいことは何ですか?」の質問に回答するとき、僕は「自分のやりたいことはなく、他者から求められたこと」と答える。

20代の頃は広告やグローバルな企業に関わりたいと思っていたが、今は「デザイナーとして生き残りたい」という想いが一番強い。それは、「自分にデザイナーになれるかどうか?」という原体験や、若くて優秀なデザイナーが参入している影響がある。年を重ねるにつれ30代の締めくくりが近づいていることも影響しているのかもしれない。

  • BtoCではなく、BtoBの業界に身を置いていること

  • スマートフォンのアプリではなく、デスクトップのWEBサービスを担当すること

  • 新規事業案件ではなく、リニューアル案件であること

これらは、生存確率を高めることに繋がっている。と自己催眠のように言い聞かせている日々だ。

ポジショントークもあるが…。種明かしをするならば、BtoCは「生活世界」に立脚しているためデザイナーの参入障壁が低いこと。反対にBtoBは「仕事世界」に立脚しているため業務理解やドメイン知識の理解が参入障壁であり、デザイナーの数は限られる。スマートフォンアプリは、20代の感性が強く作用すると考えており、例えば、DeNAが運営する「Pococha」のようなUIデザインは、40代に差し掛かった自分には不向きである。反対にSaaSに代表されるデスクトップ型のプロダクトデザインは、年齢による感性の影響を受けにくい。何よりもその分野に興味を持つデザイナーの数は少ない。新規事業案件とリニューアル案件でいえば、新規事業案件は自分の特性を活かしきれない。多様なステークホルダーの社内調整(ロビー活動)、契約内容含めたリーガルの観点や技術的負債を加味したプロダクト開発といった成約ルールが多い、総合格闘技の型の案件の方が自分の特性にあっている。

無理矢理まとめると、もし、自分がデザインを担当しているSPEEDA(立ち上げ10年以上のSaaSプロダクト)をリニューアルし、レベニューの結果も出た場合、その知見と経験は40代の自分を助けてくれるに違いない。現在、立ち上げ5年目のSaaSプロダクトも、あと5年もすると10年選手となるからだ。という自己催眠をかけている。

一方、このような考え方をユーザベースに入社した当初からあったのかと問われたら、回答は「No」となる。会社から大きな課題をいただき、全力で取り組みながら、自分の仕事は、デザイナーとして生き残るためにどう繋げると良いのか?と自問自答を繰り返しながら紡いだ見解だ。

そして、やはり「自分は、デザイナーになれるのか?」といったあの受験体験は、大きくキャリアの考え方に影響を与えている。ふり返ると高校生の時に目指した姿からは、随分遠い場所のデザインをやっている。

  • コンセプチャルデザイナーは、デッサン力に打ちのめされて、諦めた。

  • グラフィックデザイナーは、志望学科に落ちたので、諦めた。

  • メーカーのUIデザイナーは、就活に落ちたので、諦めた。

もしかしたら、その時、その時で。諦めたのではなく、逃げ出しただけなのかもしれない。逃げて、逃げて。逃げて。絶対に逃げては、いけない最後の線引きが「デザイナーであるかどうか」だった。今なら、そんな風に捉えることもできる。

だから、デザインの対象は何でも良かったのかもしれない。IT企業のWEBデザイナーから社会人のキャリアがスタートしたとしても、問題なかったのだ。冠言葉がなんであれ、デザイナーになれたのだから。

このように、自分のキャリア戦略のひとつは「逃げる」が挙げられる。言い換えれば、今の自分は、BtoC業界から逃げて、スマートフォンのアプリから逃げて、新規事業から逃げたデザイナーなのだ。


2003年の大学1年生から2023年までの20年間の軌跡をUXとの関係性でまとめたスライド

2003年からの年表(上記スライドの一部抜粋)

自分で選ばない

もうひとつ、自分のデザイナー人生をふり返ると、何かを選んで進んだよりも、たまたま門が開いた(ご縁があった)ところに身を置いたケースが多い。

  • 縁があった情報デザイン学科へ入学。

  • 縁があったIT企業へ入社。

  • 縁があった同級生とデザイン会社を共同創業。

  • 縁があった教授がいる大学院に入学。

  • 縁があったデンマークへ在外研究。

  • 縁があったユーザベースに参画。

「自分で選ぶのではなく、”縁があったところ(相手が選んでくれたところ)”に行けばいいよ。それが人生を楽しむ秘訣だよ!」

この言葉を、大学院時代に在外研究先で悩んでた時、恩師である須永先生からいただいた。

この考えを下敷きに自分のキャリアをふり返ると、興味深い出会いと繋がっていることに気づく。

縁があった情報デザイン学科へ入学。⇒ 須永先生、UX/UIデザインと出会う。⇒ 縁があったIT企業へ入社。⇒ デザインの師匠、WEBデザイン、情報設計と出会う。⇒ 縁があった同級生とデザイン会社を共同創業。⇒ コーポレート業務、伴走型の新規事業開発案件と出会う。⇒ 縁があった教授がいる大学院に入学。⇒ 北欧のデザイン研究、新しいデザイン領域と出会う。⇒ 縁があったデンマークへ在外研究。⇒ デザインの力の応用例と出会う。⇒ 縁があったユーザベースに参画。⇒ MVV、コーチング型マネジメントと出会う。

全てがきれいに繋がるわけではないが、新しい出会いは、次の縁を引き寄せ、そして新しい出会いに繋がっている。僕のキャリアは、狙って形成されたというよりも、偶然性が高い傾向にある。

例えば、今でこそ社会的地位を確率したUIデザイン、UXデザインの領域も2003年頃に、これらのデザイン領域に理解を示せるデザイナーは少なった。たまたま合格して、縁があった情報デザイン学科に入学したから、手に入ったデザインスキルに過ぎない。自分で前向きに選んではいない。

コーチングのスキルも自分から進んで手に入れたけではない。デザイン組織のマネジメントで自分の力不足が露呈し、藁をもすがる思いで、なんとかしたくて取り入れたスキルのひとつだ。積極的に選んで手に入れたわけではない。

この言葉にもまた、生存確率を高めるヒントが隠されている。一般的に、市場価値が顕在化しているデザイン領域とそのスキルは、競争激化のためレッド・オーシャンになりやすい。生存確率が高いブルー・オーシャンのデザイン領域やスキルを発見するポイントの「ひとつ」は、自分の思考の枠組みから出ること(=自分で選ばないこと)にある。

自分の価値観で判断しないからこそ、新しい人やデザイン領域との出会いにつながる機会があるからだ。クリエイティブな天賦の才に恵まれたわけでもなく、頭の回転とキレ味が抜き出てるわけでもない。そんな自分のようなデザイナーが生き残るためには、この偶然性を味方につけることが大切だったりする。

計画的に予期せぬ出来事(偶然)を設計し、自分のキャリアを積み上げる考え方を「計画的偶発性理論*」という。僕のキャリアの大半は、この偶然の出会いによって形成されている。この理論に出会ったのも、IT企業の新卒研修だった。メーカーに受かっていたら、この理論と出会っていたかも怪しい。

このように、自分のキャリア戦略のもうひとつは「選ばない(偶然)」が挙げられる。だからこそ、カジュアル面談での質問に「自分のやりたいこと(選んだこと)はなく、他者から求められたこと(選ばないこと)」と回答している。

*計画的偶発性理論
スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授らが提案したキャリア論に関する考え方。

原文の論文
https://westallen.typepad.com/files/10.1.1.202.6401.pdf#page=3


恩師(情報デザイン学科で出会った須永剛司先生)との出会いのnote


師匠(IT企業で出会った先輩デザイナー)との出会いのnote


おわりに

最近、共感したデザインの能力に関するツイート(株式会社SEESAWの代表をされている「こっしー」さん)があった。

これまで、自分の生存確率を高めるキャリアのために「逃げる」×「選ばない」を説明してきた。その一方で、非デザインスキルも非常に大切な存在だったことに気づいたツイートだ。

  • 小学生の頃、テーブルトークRPGで遊んでいた経験から、ちょっとしたシナリオライティングができること。

  • フリーランスでのデザイン会社経営から、なんとなくレベルで数字や契約書が読めること。

  • ActionScriptを噛った経験から、エンジニアさんと技術に配慮した対話が可能なこと。

  • 詩集作品と論文を書いた経験から、構造的な文章と詩的な文章を使い分けられることなどなど。

どれも単独スキルでは、専門家と戦えないレベルであるが、組み合わせ次第では、仕事に活かせている。人生、本当に何が役に立つか分からない。

2023年で40歳を迎え、AI技術の躍進も凄まじい世界の中で、最低でもあと10年。現場で残れるデザイナーを目指して。1日、1日を生きのびていきたい。本noteのメッセージである「逃げる」×「選ばない」という生存戦略が誰かのキャリアに役立つことを願って。(おわり)

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