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『マチネの終わりに』第八章(12)

 担当の医師は、そうした解釈をしたことがなかった。しかし、蒔野が、「洋子さんが自殺したら、俺もするよ。」とまで口にして懸念していたのは、そういうことだったのだろうか? あんな馬鹿なこと。……彼はその約束を、まだ覚えているだろうか?

「いや、そうね、……そういうこともあったのかしらね。自爆テロに辛うじて巻き込まれずに帰国して、……」

 洋子は、そこまで言いかけたものの、やはり口を噤んだ。

 ジャリーラのその解釈は、彼女の脳裏に焼きついているあの夜の光景を、既に刻々と変えてしまいつつあった。それでも流石に、リチャードとの結婚が幸福ではなかったからこそ、PTSDは治まったのだとまでは考えなかった。

 洋子は、そうした話の流れで、実は最近、離婚したという話を打ち明けた。ジャリーラは、聞き間違いだろうかというふうに驚き、詳しいことを知りたがった。

 長い話になりそうだったので、洋子は、翌週また、スカイプ越しに、昔のように一緒に料理を作りながら詳しく話したいと提案した。既に二時間も喋っていた。ジャリーラは、その思いがけないアイディアに目を輝かせた。そして、二品ずつ、何を作るか考えておくことにして、メールで銘々、準備しておくべき食材を連絡し合う約束をした。

 洋子は、近いうちに一度、パリに行こうと考えていたが、その前にジャリーラには、洋服や食べ物など、必要なものから多少贅沢なものまで、まとめてプレゼントすることにした。

 何を送るべきか、リストを作っている中で、彼女は三年ぶりに、アマゾンで蒔野のページを開いた。結婚後は、しばらく無神経なDMが、購入履歴をアテにして、よく彼女に蒔野のCDを勧めていたが、そういうことも、いつの間にかなくなっていた。まるで、二人の関係の終わりの噂でも耳にしたかのようだった。そして、蒔野が二〇〇七年末以来、CDを一枚も出していないことを知ったのは、この時が初めてだった。


第八章・真相/12=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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