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第五章 洋子の決断 Part1

『マチネの終わりに』タイアップCD発売(2016年10月19日)を記念して、各シーンを振り返りつつ、登場する収録曲をご紹介していきます。
第五章で登場した楽曲はCDに3曲収録されており、noteではPart1とPart2に分け、小説の抜粋とともにご紹介します。Part1で今回ご紹介するのは、フランスでの蒔野のコンサートのシーンです。彼の代名詞ともいえるバリオスの《大聖堂》の演奏に没頭しながらも、蒔野は洋子の不在に気づきます。そして演奏の途中、誰もが予期しなかった出来事が起こります―。

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第五章 洋子の決断
(単行本 P.124)

 蒔野はアンコール前の締め括りとして、デビュー以来、彼の代名詞のようにもなっているバリオスの《大聖堂》を演奏した。セゴビアがバリオスを評価しなかったので、マドリードでは、唯一気に入っていたらしいというこの曲も敢えて弾かなかったが、ネット配信の動画でその様子を見ていたエコール・ノルマルの教授は、「今日は弾くんだろう?」と、リハーサルを覗きに来て、笑って声を掛けた。
 「郷愁」という副題を持つ第一楽章の内省的なプレリュードを、蒔野は、感傷を持て余して、時の流れの中で立ち往生しているような、躊躇いがちな性急さで演奏した。アルペジオのトップノートが、目の前の現実とかつての記憶とを、玉突きするように継いでゆく謐々とした旋律。その足許で、なし崩しに過去へと熔け落ちてゆく今。第二楽章の宗教的アンダンテは、荘厳なミサに託された祈りの行方を、聖堂の遥か彼方の天井の反響に探って、最後は瞑目するようなハーモニクスで、第三楽章のアレグロへと至る。蒔野の長い指は、速い旋律を惚れ惚れするほど正確に駆けた。彼がこのアレグロを弾き始めると、〝超絶技巧〟に対しては、断固として警戒せねばならないと信じている狷介な趣味人たちでさえ、完璧さとは──それも、かくも不完全な人間の!──なんと心地良いものだろうかと、ついうっかり酔ってしまうのが常だった。
 その音に身を委ねている限り、聴衆は、この世のあらゆる不測の事態の不安から解放されていた。
 ミサを終えて教会から溢れ出してきた群衆というのが、この第三楽章の作曲者の着想だった。それに忠実であるならば、疾走する想念というよりは、むしろ際限もない多様性の明滅であるべきか。マスタークラスでもそんな話をした。しかし、この時の蒔野は、聴衆の感覚をたった一本のあえかな糸で束ねて導いてゆくように直走っていた。「速すぎて情緒を欠く」としばしば批判された十代の頃よりも、近年は少しテンポを落として演奏していたが、この日は、その過去を追想するかのように、次第に加速していった。情緒をむしろ、振り切ろうとするかのように。
 何かを終わらせようとしながら、覚えず反復してしまう。逃れるつもりで、気がつけば自らがそのあとを追っている。
 しかし、苦悩のための祈りの予後とは、固よりそうした時ではあるまいか。イラクで間一髪、死を免れてパリへと戻って来た、洋子でさえ、恐らくは。──

 その瞬間、蒔野の中で何が起きていたのだろうか?
 彼は、舞台に立った時から、洋子の姿が客席にないことに気づいていた。前日に確認したメールでは、「来る」という返事だった。一曲終える毎に、彼女が座るはずだった、左手奥の階段脇の空席に目を遣った。もう来ないのだと彼は悟った。ここにだけでなく、自分の許には。彼女への思いの裂け目から、ゆっくりと出血が続いていた。しかし蒔野は、自身の演奏家としての矜恃にかけて、それとこれとはまた別の話だと断言するはずだった。
 彼の音楽は、その時、ただ静かな場所を駆けていただけだった。遠くでこの上もなく美しいギターの調べが聞こえていて、ただそれが、自分の奏でている音なのかどうかはわからなかった。それから彼は、静まってゆくのは、前方ではなく背後ではないのかという奇妙な考えを過らせた。追いつかれる?……昨年来、コンサートのリハーサルの度に感じていたあの戦慄が、不意に背中の一面に広がって長く続いた。楽曲は、展開部の最後に差し掛かり、ベースラインの半音ずつの上昇を経て、最初の主題に戻ろうとする。まさにその刹那だった。
 沈黙が、唐突に脇から彼を追い抜いて、行手に立ちはだかった。音楽が、その隙に彼の手から逃れ去った。何も聞こえなくなった。どういうわけか、しんとしていて、発熱した時間が、虚無のように澄んでいる。蒔野は、舞台の照明が目に入った時のように、その静寂を少し眩しいと感じた。額に汗が滲んだ。人混みで財布を掏られた人のように、彼は慌てて音楽を探した。手元にはただ、激しい鼓動と火照りだけが残されている。
 聴衆は、突然、演奏が止まってしまったことに驚いていた。蒔野自身も呆然としていて、何が起きたのか、わかっていない様子だった。すぐに演奏に戻ろうとしたが、指はただ、指板の上をうろつくだけで途方に暮れた。蒔野はもう一度、驚いた顔をして、怪訝そうに、自分の両手を見つめた。
 会場がざわつき始めると、彼は何も言わずに立ち上がって一礼した。客もどうしていいかわからなかったが、疎らに拍手が起きた。蒔野は、ぼんやりと会場の空席の一つに目を遣った。そして、思いつめた表情のまま、一切笑みを見せることなく、そのまま舞台を降りてしまった。

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★「第五章:洋子の決断」で紹介した曲の視聴
05.大聖堂 (バリオス)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/qyqmcbf3

★タイアップCDの先行予約はこちらから(2016/10/19発売予定)https://storeshirano.stores.jp/

特典:新聞連載の挿絵を描いてくださった石井正信氏による「しおり」。毎日新聞での挿絵は、単行本に生かされませんでしたが、CDのブックレットにはふんだんに盛り込まれています。平野と福田氏の対談もぜひご覧ください。

★『マチネの終わりに』単行本ご購入はこちらからhttps://www.amazon.co.jp/dp/4620108197

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