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『マチネの終わりに』第六章(22)

「そうですね。……弱い立場の人が、どうして自分を責めがちなのか、よくわかった気がします。自尊心のせいなんでしょうか?」
「それもあるでしょう。自尊感情だって、とても大事なものですから。戦争そのものが、最初から人間の耐性の限界を超える経験なのですから、平気で日常に復帰できるとは考えるべきじゃないです。」
「どうして同じ夢を何度も見るのか、……自分なりに本を読んだりして、考えてたんです。あれは一体、何だったのか、その意味を言語化できれば、反復は治まるんじゃないか。決して、あの出来事を思い出させるジャリーラを遠ざけろというメッセージではないはずだ、と。」
「不安夢の説明は、なかなか難しいです。フロイトの精神分析学も、それを〈願望充足〉と扱おうとする点で一番、破綻しています。〈死の欲動〉という、例のアレです。」
「ええ。」
「もう二度と、同じ経験はしてくれるなという警告の意味はあるでしょう。あなた自身が、設定値が非常に過敏なセンサーのようになっていますから、ただのアラブ系移民がテロリストではないことなど明らかであっても、警報はやはり鳴ってしまうんです。今の不安な状態では、あまり分析的に考えすぎないことです。あなたみたいに、自分は大したことはないはずだと思い込もうとしている人に対して、からだの方が、冗談じゃない、こんなに傷ついているじゃないかと訴えようとしているのかもしれない。その警告を発する回路が一旦設定されてしまうと、なかなか解除できないのが厄介なところです。」
「止まるのを待つしかないんですか?」
「薬で不安を鎮めながら、生活を安定させてゆくことで状況は改善します。悲観しないで。必ずよくなります。元の自分に戻ろうとするのではなくて、体験後の自分を、受け容れ可能なかたちで作っていくことができれば、症状はやがて消えていくでしょう。」
「過去は変えられる、ということですか?」
 医師は一瞬、その意味を考えようとするような間を置いてから、
「そう、あなた自身の今後の生活によって。良い表現ですね。」

 と頷いた。


第六章・消失点/22=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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