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『マチネの終わりに』第七章(12)

 今年の二月にNYダウ平均が七〇六二・九三ドルで底を打ってからというもの、株価は鰻登りに回復し、今週ようやく一〇〇〇〇ドルを超えた。今宵はそれを祝うために、世間の顰蹙の目を逃れて、秘密の“魔女の夜宴(サバト)”に興じているのだった。

 洋子は、窓の外を見るともなしに眺めた。対岸のニュージャージーまで、川の幅だけ夜の闇が領していて、そこに来客たちの姿が断片的に映っている。洋子自身も、なぜかいる。グラスを持っていないと、いかにもパーティから弾き出されてしまった人のようで、置いてきたのを後悔した。

「男ってどうしてあんなに自慢話が好きなのかしら?」

 洋子は後ろから声をかけられて振り返った。胸を強調した赤いドレスのブロンドの女性が、マティーニのグラスを二つ持って立っている。洋子は、差し出された片方を受け取って礼を言い、彼女のために隣に場所を空けた。さっきリチャードに紹介された仕事の関係者だった。

「車、別荘、――それに女。」

「男だから、みんなそうってわけでもないでしょう?」

 洋子は、微笑して言った。確か、ヘレンという名前だった。リチャードが顧問を務めている銀行で働いていて、少し前に二度目の離婚をしたとかで、先ほどは、金融危機以降、毎日のようにメディアで使用される「強欲」というウォール街批判の常套句を自虐的に用いて、一座に笑いをもたらしていた。

「男は本質的にそうよ。そうじゃない男と、会ったことないもの。憐れむくらいの気持ちじゃないと、女はやってられないわね。」

 酔っているのか、ヘレンは、どことなく気怠い、艶のある目でこちらを見ている。洋子は、まるで口説かれているかのようなその共感の差し向け方に戸惑った。

「あなたみたいにきれいで、仕事もよく出来る女性を前にすると、劣等感でアピールに必死になるのよ、きっと。」

 洋子は、さらっと言った。年齢は五、六歳上といったところだろうか。うっかりだぶついた手の甲に目を留めて、そう思ったが、顔はほとんど表情が埋め立てられてしまったかのように、リフティングや注射で張りつめていた。


第七章・彼方と傷/12=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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