『マチネの終わりに』第八章(31)
身重の早苗は、先に部屋に戻った。蒔野はそれから、グローブの野田らと、ホテルのバーで一時間ほど仕事の話をして、深夜二時までだという館内の温泉に慌てて浸かりに行った。
広い大浴場には、彼の他には、一人しか客がいなかった。谷間の温泉町なので、風呂は鬱蒼と木々が生い茂る山の斜面を向いている。蒔野は、露天風呂で少し長湯をして、その静寂に浸った。穏やかに酔いが回っていたお陰で、その間、何も考えずに済んだ。
浴衣を着て部屋に戻る途中で、蒔野は、照明の落ちた廊下の隅のマッサージ・チェアに、武知が独りでぽつんと座っているのに気がついた。ペットボトルの水を二本買うと、蒔野は、彼の隣に空いている同種のマッサージ・チェアに腰を下ろした。
武知は、ああ、と顔を上げた。髪はもう乾いているので、大分前に風呂から上がったのだろう。人懐っこい笑みを口元に過ぎらせた。
「ありがとう。丁度、のどが渇いてて。」
「どうこれ? 気持ちいい?」
「うん、なんか、すごく進化してるね。頭の先から足の先まで。蒔ちゃんは、体のメンテナンスに気を遣ってるから、やらないのかな、こういうのは?」
「いや、まァ、これくらいなら。……一遍、ヘンな整体にかかったらさ、次の日、腰が立たなくなっちゃって。整体も馬鹿に出来ないよ。たったあれだけのことで、人を動けなくさせられるんだから。」
「もみ返し?」
「そういう類いだろうけど、もっと、酷いやつ。」
「からだは、わからないね。」
「わからない、本当に。俺はそのせいで、一年半も棒に振ったから。」
蒔野は、革張りの椅子に包み込まれるようにして深く腰掛け、リクライニングを倒した。火照ったからだに、その革の冷たさが心地良かった。
「〈背筋伸ばしコース〉くらいならいいかな?」
十分間で百円だった。水を打ったような館内に、その作動音が鳴り響いた。武知は隣で、体を起こして水を飲んでいた。
「おー、気持ちいいね。」
「蒔ちゃんは、あの《幸福の硬貨》の監督の娘さんとは、最近会ってないの?」
第八章・真相/31=平野啓一郎
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