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『マチネの終わりに』第六章(33)

 不景気な業界だけに、方々で色んな噂が飛び交っており、蒔野も半信半疑だったが、岡島は、ジュピターが買収される際に、所属音楽家たちの整理と取りまとめを行う代わりに、グローブでのポストを約束されたという話だった。実際、蒔野との面会のようなことを、彼はあちこちでやっていたらしいが、いずれにせよ、彼はどうしても、新天地で岡島と一緒に仕事をする気にはなれなかった。
 岡島は、確かにこの業界のことをよく知っていたが、それがほとんど唯一の自尊心の拠りどころだったので、昨今のCDの売り上げ不振に溜息を吐き、現代人の芸術的感性の劣化を嘆いて、「新しい試み」の必要を熱心に説きつつも、実際に部下の是永などが具体的な提案をする時には、癇に障ったように早口で捲し立てて、「そんなこと、出来るわけがない。」と冷笑する悪い癖があった。
 是永のやるせない分析によれば、岡島は、「そんなこと」に今まで自分が気づかなかったと思われるのが何より腹立たしく、当然、気づいてはいて、しかしやらなかったのは、相応の理由があるからだと弁明せずにはいられない、典型的な「バブルさん」なのだ、とのことだった。
 蒔野は、そんな上司と部下との鍔迫り合いに巻き込まれるのはご免だったので、大体、笑い話のように聞き流すのが常だったが、是永という緩衝材がいなくなって、直接岡島とやりとりするようになると、彼女の言い分もつくづく理解できるようになった。
 是永とは、《この素晴らしき世界》の一件以来、没交渉になっていたが、最近になって退社の挨拶が一斉メールで届き、蒔野は、この企画の成立のために、彼女がどんなに骨を折ったかを今更慮った。

 グローブは、蒔野の要望を容れて、岡島を担当から外し、野田という名の三十代の青年を新たに紹介した。
 ピンクのワイシャツに、ワックスで固めた八十年代風の髪と鼈甲の眼鏡という風貌が、初対面の時には少し嫌味に感じられたが、話しぶりは明快で好感が持てた。
 野田は元々、音楽配信事業部の所属で、今度のジュピターの買収を機に、クラシック部門に異動になったらしい。


第六章・消失点/33=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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