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『マチネの終わりに』第八章(7)

 ジャリーラは、打ち拉がれている。さっきも会ってきたけど、辛いことばかりで、生き続ける意味を見失っている。君としばらく連絡を取ってないと言ってたから、時間のある時にでも、声を掛けてやってほしい。君と一緒に生活した頃のことを懐かしがってた。君の体調も心配してたよ。

 君はきっとニューヨークの生活を満喫してるだろう。子供は元気? もう長い間会ってないけど、久しぶりのバグダッドで、君がいた頃のことを思い出したよ。

 パリに来ることがあったら、ジャリーラと一緒に食事でもしよう。洒落たイラク料理のレストランを見つけたよ。」

 フィリップのメールを読み終わると、洋子は、パソコンの前で両手で顔を覆い、「……なんてこと、……」と首を横に振りながら泣いた。腹部を誰かに蹴られているような、痙攣的な大きな震えが止まらなかった。

 ジャリーラとは、ニューヨークに来てからも連絡を取っていたが、この一年ほどは、こちらからメールを出しても返事のないことが何度かあった。ケンの育児で手一杯だっただけでなく、彼女自身の抱えていた一種、耐え難い空虚感のせいで、メールの内容も手短な、味気ないものになっていた気がした。

 ジャリーラの窮状は察せられるだけに、傍目には派手な幸福に浸っているようにしか見えない自分の生活とのギャップが、彼女との会話を心苦しく感じさせることもあった。フィリップが紹介してくれたオルザという名のジャリーラの世話人は、親しみやすく、信頼の出来る女性だったが、旅行会社に勤務する彼女も仕事が忙しく、いつもジャリーラから目を離さないというわけにはいかなかった。

 最後にスカイプで喋ったのは、二月のリチャードから不倫を打ち明けられる直前だった。ニューヨークでは、酷く雪が降っていて、静かな分だけ、途切れがちな会話が洋子を居たたまらない気持ちにさせた。元気のないジャリーラに、洋子は励ましの言葉を掛けたが、何もしてやれないことがもどかしかった。ケンが起きて泣き出したために、会話はそのままになり、その後、離婚騒動のせいで、しばらく連絡も滞ってしまった。


第八章・真相/7=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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