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ある男|序|平野啓一郎

この物語の主人公は、私がここしばらく、親しみを込めて「城戸さん」と呼んできた人物である。苗字に「さん」をつけただけなので、親しみも何も、一般的な呼び方だが、私の引っかかりは、すぐに理解してもらえると思う

城戸さんに会ったのは、とある書店で催されたイヴェントの帰りだった。

私は、二時間半も喋り続けた興奮を少し醒ましてから帰宅したくて、たまたま見つけた一軒のバーに立ち寄った。そのカウンターで、独りで飲んでいたのが城戸さんだった。

マスターと彼との雑談を、私は聞くともなしに聞いていた。そのうち、何かの拍子につい笑ってしまい、話に加わることになった。

彼は自己紹介をしたが、その名前も経歴も、実はすべて嘘だった。しかし、私には疑う理由がないから、最初はその通りに受け取っていた。

黒縁の四角い眼鏡をかけていて、目を惹くようなハンサムではないが、薄暗いバーのカウンターが似合う、味わい深い面立ちだった。こういう顔に生まれていたなら、中年になって少々皺が増えてもモテるんじゃないかと思ったが、そう伝えると、彼は怪訝そうに、「いえ、全然、......」と首を傾げただけだった。

私のことは知らなかった様子で、恐縮されてこちらが恐縮した。よくあることである。

しかし、小説家という職業には甚く興味を持っていて、色々と根掘り葉掘り質問した挙げ句、急に感じ入ったような表情になって、「すみません。」と謝られた。私は何ごとかと眉を顰めたが、先ほど教えた名前は偽名で、本名は城戸章良というと明かした。そして、ここのマスターには内緒にして欲しいと断って、歳も私と同じ一九七五年生まれで、弁護士をしているのだと言った。

ろくでもない法学部生だった私は、法律の専門家を前にすると少々気後れするのだが、そんなことを告白されたお陰で、遠慮がなくなっていた。というのも、城戸さんがそれまでに語っていた経歴は、人の憐憫を誘うような、ちょっと気の毒なものだったからである。

私は、どうしてそんな嘘を吐くのかと率直に尋ねた。悪趣味だと思ったからである。すると彼は、眉間を曇らせてしばらく言葉を探していたあとで、
「他人の傷を生きることで、自分自身を保っているんです。」
と半ば自嘲しつつ、何とも、もの寂しげに笑った。「木乃伊採りが木乃伊になって。......嘘のお陰で、正直になれるっていう感覚、わかります? でも、勿論、こういう場所での束の間のことですよ。ほんのちょっとの時間です。僕は何だかんだで、僕という人間に愛着があるんです。——本当は直接、自分自身について考えたいんです。でも、具合が悪くなってしまうんです、そうすると。こればっかりはどうしようもなくて。他に出来ることは、全部やってます。多分、もう少し時間が経てば、そんな必要もなくなると思うんですが。——自分でも、こんなことになるとは思ってなかったんです。......」

私は、その思わせぶりにやや鼻白んだが、しかし、言っていること自体は興味深かった。それに、私は何となく、彼に対する好感を捨てきれなかった。
城戸さんは、更にこう言った。「でも、あなたには、これからは本当のことを言います。」

この最初の嘘を巡るやりとりを除けば、城戸さんは気さくで落ち着いた好人物だった。感じやすい繊細な心を持っていて、しかも言葉の端々からは、奥深い、複雑な性格が覗われた。私は、彼と話をしているのが心地良かった。こちらの言うことが、よく通じ、相手の言っていることがまた、よくわかったからである。そういう人には、なかなか会えないものではあるまいか。音楽好きというのも、二人の重要な接点だった。それで、偽名を使うのも、何かよほどの事情があるのだろうと忖度したのだった。

次にその店を訪れた時にも、やはり城戸さんは独りでカウンターに座っていて、私は勧められて隣に座った。マスターの定位置からは遠い席で、以後、私たちは何度となく、この店のその席で顔を合わせ、夜更けまで語らい合う仲となった。

彼はいつもウォッカを飲んでいた。痩身の割に酒が強く、本人は気持ちよく酔っていると言うが、その口調は穏やかで、何時間経っても変わることがなかった。

私たちは親しくなった。しかし、二人の関係は、ただこの店のカウンターに限られていて、どちらも連絡先を尋ねようとはしなかった。彼は恐らく遠慮していた。私はと言うと、正直なところ、まだ警戒もしていた。そして実は、もう長らく彼とは会っておらず、多分、二度と会うこともないだろう。彼が店を訪れなくなったことを━━その「必要」がなくなったことを━━私は良い意味に解釈している。

 

小説家は、意識的・無意識的を問わず、いつもどこかで小説のモデルとなるような人物を捜し求めている。ムルソーのような、ホリー・ゴライトリーのような人が、ある日突然、目の前に現れる僥倖を待ち望んでいるところがある。

モデルとして相応しいのは、その人物が、極めて例外的でありながら、人間の、或いは時代の一種の典型と思われる何かを備えている場合で、フィクションによって、彼または彼女は、象徴の次元にまで醇化されなければならない。

波瀾万丈の劇的な人生を歩んできた人の話を聞くと、私も、これは小説になるかもしれないと思うし、中には「小説に書いてもいいですよ。」と微妙な言い回しで自薦する人もいる。

しかし、いざ、そうした派手な物語を真面目に考え出すと、私は尻込みしてしまう。多分、それが書ければ、私の本ももっと売れるだろうが。

私がモデルを発見するのは、寧ろ以前から知っている人たちの間である。

私も、関心のない人とは出来るだけ交際したくないので、長く続いている関係には、何かあるのである。そして、ふとした拍子に、突然、あの人こそが、捜し求めていた次の小説の主人公なのではと気がつき、呆気に取られるのだった。

蓋し、長編小説の主人公というのは、それなりに長い時間、読者と共にあるので、そんな風にゆっくり時間をかけて理解が深まってゆく人の方が、相応しいのかもしれない。

 

城戸さんは、二度目に会った時から、偽名を使っていた理由を少しずつ語り始めたが、それはなかなか込み入った話だった。私は引き込まれ、なぜ彼がそれを私に話したかったのかを察し、腕組みしながらよく考え込んだ。「小説に書いてもいいですよ。」とこそ言わなかったが、恐らくはそれを意識していたと思う。

しかし、私が、本当に彼を小説のモデルにしようと思い立ったのは、別の場所で、偶然、彼をよく知っているという弁護士に会ったからだった。

私が、城戸さんはどんな人かと尋ねると、その弁護士は即座に、「立派な男ですよ。」と言った。

「あの人は、例えば、どんなタクシーの運転手に対しても、ものすごく優しいんですよ。道を知らなくても、感心するほど、気さくに丁寧に教えてあげるんです。」

私は笑ったが、しかし、このご時世に━━しかも金持ちで!━━それはなかなか立派なことだろうと同意した。

その人から他に聴いた話は、色々と意外で、本人が決して口にしなかった胸を打つような事情もあり、私は、城戸さんという、どう見ても寂しそうな、孤独な、同い歳の中年男のことを、ようやく立体的に理解した。やや死語めいた表現だが、彼はやはり、人物なのだった。

小説を書くに当たっては、この人や関係者に改めて話を聞き、「守秘義務」から城戸さんが曖昧にしか語らなかったことを自ら取材し、想像を膨らませ、虚構化した。城戸さん本人は、職務上知り得たことをここまで人に話さなかっただろうが、小説としての必然に従った。

たくさんの、それもかなり特異な人物たちが登場するので、人によっては、どうしてこの脇役の方を主人公にしなかったのかと、疑問に思うかもしれない。

城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じていた。
ルネ・マグリットの絵で、姿見を見ている男に対して、鏡の中の彼も、背中を向けて同じ鏡の奥を見ているという《複製禁止》なる作品がある。この物語には、それと似たところがある。そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。

読者はまた恐らく、この序文のことが気になって、私がそもそも、バーで会っていたあの男は、本当に「城戸さん」なのだろうかとも疑問を抱くかもしれない。それは尤もだが、私自身はそうだと思っている。

当然に、彼のことから語り始めるべきであろうが、その前に里枝という女性について書いておきたい。彼女の経験した、酷く奇妙で、不憫な出来事が、この物語の発端だからである。

(続く)

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