見出し画像

『マチネの終わりに』第六章(32)

 呼吸を意識し、楽曲を冒頭から辿ってゆこうとするものの、わかりきっている箇所は焦燥が次々に飛ばしてしまう。断片的に難所の指の動きを確認したが、むしろ思いがけない空白は、その前後の継ぎ目にこそ潜んでいそうで、頭の中で、後戻りしたり、先走ったりを繰り返した。
 長い演奏生活の中では、好不調の波とのつきあい方自体も一種の技術のはずだった。しっくり来ないような演奏も、必ずしも珍しいわけではなかったが、蒔野は、その対処の仕方をすっかり忘れてしまったかのような自分に戸惑っていた。不用意に深刻に思いつめてしまい、大して過密スケジュールでもないのに、ほんの数カ月で、二度も楽譜が飛んでしまうというのは異常だった。
 
 洋子との新しい生活に寄せる蒔野の期待は、漠然とはしていたものの、以前より大きくなっていた。
 彼女の前では、せめて憂鬱な表情を見せたくなかったが、その心配の必要もなく、パソコンのモニター越しに向かい合うと、彼はふしぎなほど自然に笑顔になった。
 蒔野は、彼女と一緒に、ジャリーラのためにギターを弾いた時の心境を思い出そうとしていた。あの調子でそのまま舞台に上がれるわけではなかったが、しかし、このところ仕事が上手くいかずに、ずっとギクシャクしていた楽器と、あの時は久しぶりに楽しく会話が出来たと彼は感じていた。ギターそのものが、生死の境を辛うじて潜り抜けてきた少女のために、親身な歌を歌っていた。何のために音楽を創造するのかという問いを、あの時は束の間、忘れていることが出来た。

 洋子との再会までに、蒔野は少しでも気分を変えたくて、雑然と停滞していた仕事の整理に手を着けた。
 パリからの帰国後、彼は三谷を通じて、新しいレコード会社のグローブと連絡を取っていたが、担当者の人事を巡って混乱が生じ、すぐにレコードを出す予定もない蒔野の話は、しばらく脇に置かれていたような格好だった。
 蒔野の担当には、予期していた通り、元ジュピター・レコードの岡島がつく予定だったが、蒔野は三谷を介してそれに難色を示した。


第六章・消失点/32=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?